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映画「沈黙-サイレンス-」ネタバレ感想&解説 マーティン・スコセッシが問う「信仰とは何か?」、ラストシーンで全てが解ける見事な構成!

「沈黙-サイレンス-」を観た。

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マーティン・スコセッシ監督が28年もの歳月をかけて映画化を熱望した、遠藤周作原作の文芸歴史作品。マーティン・スコセッシカトリックの司祭になる事を志した事があるのは有名な話で、自身の映画にも宗教的なテーマをしばしば登場させてきた。今作はまさに、そのスコセッシの面目躍如とも言える、静謐なタッチの名作に仕上がっていたと思う。今回は「感想」でネタバレあり。

 

監督:マーティン・スコセッシ

出演:アンドリュー・ガーフィールドアダム・ドライバー浅野忠信リーアム・ニーソン窪塚洋介

日本公開:2017年

 

あらすじ

島原の乱が収束して間もないころ、イエズス会の高名な神学者「クリストヴァン・フェレイラ」が、布教に赴いた日本での苛酷な弾圧に屈して棄教したという報せがローマにもたらされる。フェレイラの弟子であるセバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペの二人は、日本に潜入すべくマカオに立ち寄り、そこで日本人「キチジロー」と出会う。キチジローの案内で五島列島に潜入したロドリゴ達は隠れキリシタンたちに歓迎されるが、やがてキリシタン狩りを行う長崎奉行所に追われる身となる。幕府に処刑され、殉教する信者たちを前に、ロドリゴはひたすら神の奇跡を祈るが、神は「沈黙」を通すのみであった。そんな時、逃亡するロドリゴは遂にキチジローの裏切りで密告され、長崎奉行所に捕えられてしまう。

 

 

感想&解説

この「沈黙-サイレンス-」だが、まず日本の描写が素晴らしい。撮影自体は台湾で行われたらしいが、海外監督特有のいわゆる”トンデモ日本描写”が無く、綿密な時代考証とスタッフの調査により、今作の世界観は成り立っていると思う。セリフやセットの細かい所作まで、これだけ違和感なく海外監督が作った、”日本舞台の作品”を観ていられるケースは珍しいのではないだろうか。またそれに伴い、日本人俳優の演技も軒並み素晴らしい。特にイッセー尾形など、こんなに魅力のある役者だったのかと驚いた。浅野忠信窪塚洋介塚本晋也などは言うに及ばず、改めてこのマーティン・スコセッシの作品を通じて、全世界に日本の役者のレベルの高さをアピール出来たと感じる。

 

この作品の上映時間は160分近くあり、結構長い。通常なら間延びしそうな上映時間だが、この映画にはほとんど退屈なシーンは無く、テーマ的に緊張感のある展開の為、上映時間はあっという間に過ぎる。スコセッシ監督自体が、カトリック司祭を目指していたことは有名なエピソードだが、本作の主題は「信仰とは何か?」だろう。1640年の江戸時代の長崎で行われていた、あまりに厳しいキリシタン弾圧に対して、イエズス会ポルトガル人宣教師たちが感じる苦悶と疑念、そして信念が描かれる作品だ。劇中で「主よ、何故あなたは黙ったままなのですか?」と、繰り返し問うのはアンドリュー・ガーフィールド演じるロドリゴ神父だが、キリスト教の信者たちが拘束され殺されていくのを目の当たりにしながら、ひたすら主に祈り、救済を求める。だが主は沈黙を続け、その信仰心を揺さぶる様に幕府は信者に対し、「踏み絵」を強要してくるのだ。

 

フィジカルな苦痛と精神的な圧迫に耐えながら、ロドリゴ神父が主への信仰を貫くシーンが続くが、対照的なのが窪塚洋介演じる「キチジロー」である。彼は劇中、長崎奉行所に脅されれば踏み絵もするし、ロドリコ神父も裏切って幕府に売ってしまう。だが、その後で神父の元を訪れては自らを「弱い人間」だと言い、必ず涙ながらにコンヒサン(告悔)を行うのだ。そんな彼は、踏み絵をしたからと言って、卑怯な棄教者であろうか?更に、踏み絵が出来ずに「磔の刑」にて命を落とした「隠れキリシタン」のモキチと比べて、どちらが尊い信仰者だと言えるのだろう?更に言えば、ロドリゴやモキチの「信仰」と、生きる事に執着するキチジローの「信仰」に違いがあるのだろうか?、こういった事を観る者に突きつけてくる作品だ。もちろん、この判断は観た観客一人一人に委ねられるのである。

 

ここからネタバレになるが、最後にロドリゴ神父が取る”踏み絵”によって、彼は世間からは「転んだ」と言われる棄教者の立場になる。だが、それによって彼の信仰が薄らいでいなかったことが、映画版オリジナルの展開である、ラストシーンの「木彫りの十字架」によって明かされるのだ。ロドリゴ神父がこれをいつ誰から貰ったのか?を考えると、マーティン・スコセッシ監督が伝えたかったメッセージが浮かび上がる。そしてそれは、リーアム・ニーソン演じるフェレイラも同じことだったのだろう。彼らの信仰心は棄教者としての行動や発言とは裏腹に、最後まで心の中に根強くあったということが分かるのだ。

 

 

この作品は本当に素晴らしいのだが、演出で一つだけ残念な点がある。それは観た方なら分かると思うが、ロドリゴが聞く「例の声」である。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」と伝えるあの声は、ロドリゴの内面の声だという演出だが、どうしても彼が取ろうとしている”踏み絵”に対する、「言い訳」と映ってしまう。沈黙を続ける主に対して自らの意思であの苦渋の決断をしたという、この作品の大事なテーマがぶれてしまっていると感じるのだ。目の前の命を助ける為に、自らの判断で汚名を被り、世間には「転んだ」と言われながらも、彼の信仰心は揺らがなかったという作品のテーマなのだから、やはりあのシーンの「例の声」は必要無かったと思ってしまった。

 

僕はほぼ無宗教者である。だが、本作は改めて宗教や信仰について考える機会を与えてくれた映画であったと思う。また何より映画作品として、とても面白い。確かに長く、重い映画だとは思うが、このマーティン・スコセッシ監督が創った、執念の力作を劇場で見逃す手は無いと思う。

採点:7.5(10点満点)