映画を観て音楽を聴いて、感想を書くブログ

会社員バンドマンが綴る、映画と音楽のブログです。過去の名作から、新作まで綴っていこうと思います。音楽についても書くかもしれません。

「ビューティフル・デイ」を観た(完全ネタバレ&解説アリ)

ビューティフル・デイ」を観た。

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監督:リン・ラムジー

出演:ホアキン・フェニックス、エカテリーナ・サムソノフ、ジュディス・ロバーツ

日本公開:2018年

 

カンヌ国際映画祭で男優賞と脚本賞の二冠を達成し、シネフィルからも非常に評価の高い本作。監督は「少年は残酷な弓を射る」の女性監督のリン・ラムジー。主演は2012年ポール・トーマス・アンダーソン監督「ザ・マスター」や、2013年スパイク・ジョーンズ監督「her/世界でひとつの彼女」のホアキン・フェニックス。原作はジョナサン・エイムズが2013年に発表した「You Were Never Really Here」という短編小説である。「21世紀のタクシードライバー」との呼び声も高い本作だが、90分というタイトな上映時間に濃密な映画的要素が詰まった、非常に個性的な作品だった。今回もネタバレありで。

 

あらすじ

トラウマを抱え、暴力を恐れない元軍人のジョーホアキン・フェニックス)。年老いた母と暮らす彼は、行方不明の少女たちを捜し出す報酬で日々の生計を立てていた。そんな彼のもとに、州上院議員の娘ニーナを捜してほしいとの依頼が舞い込む。人身売買の現場に行き、用心棒たちをハンマーで倒しながら、ほどなくニーナを発見するジョー。しかし見つけ出したニーナは、怯える様子もなく人形のように感情を失っていた。父親に娘を渡すため、約束のホテルにて待機する二人だったが、テレビから父親の上院議員が飛び降り自殺した事が伝えられる。その直後、部屋に銃を持った二人の男が現れ、ニーナはジョーの目の前で再びさらわれてしまう。なんとか窮地を脱出したジョーだったが、その後、次々と仕事仲間や母親を殺された事を知る。家にいた殺し屋から、少女趣味の州知事が黒幕である事を知ったジョーは、ニーナが監禁されている豪邸に向かう。

 

感想&解説

あらすじから受ける、「96時間」的な過去のアクション映画を想像すると、かなり印象が違う作品だろう。そもそもアクションを描くつもりが無い作品だが、かといってサスペンス的な起伏のあるストーリーがある作品でもない。映画全編に亘って立ち込める「死」と「絶望」のイメージから、やはり往年のノワール作品を思い起こさせるが、懐古趣味的な作品でも無い。極めてオリジナリティと芸術感度の高い作品だと思う。いわゆる説明セリフや分かりやすい演出を全て廃していて、多くのシーンで、その解釈が観客の想像に委ねられる。特に主人公であるジョーが過去に父親から受けてきた虐待や、彼が赴いた戦場で見てきた光景、助けられなかった少女たちの死体が、フラッシュバックで描写されるが、これらの状況説明は劇中で特に無い。ただ、これらの光景がジョーの頭には常に見えていて、彼の精神が壊れている事だけが淡々と表現される。


ジョーは常に自らの死を考えているキャラクターだ。袋を被って窒息してみたり、ナイフを口に入れたり、母親の死体と共に洋服に石を詰めて湖に沈んだりする。これは原題である「You were Never Really Here」(あなたは本当には存在しない)というタイトルに呼応して、自らの存在を消そうとするかの様な行動だと思う。母親を殺されて生きる意味を見出せなくなったジョーだが、母親の死体と共に湖に沈みゆく際に、彼をもう一度水面に浮かび上がらせるのはニーナの存在だ。過去の贖罪の様に、彼女を救う為ジョーは再びハンマーを手にする。誰かの為に生きる事が、唯一、ジョーが自分を殺さない理由なのである。


だが、ニーナも単純な「拐われた少女」としての役割だけのキャラクターではない。なんとジョーが助けに行った時には、すでに変態州知事の首をかっ切っていて、無表情で食事をしているのである。この少女もいわゆる「精神が壊れているキャラクター」だが、過去にどんな辛い事があってサイコパスになったのかは全く語られない。ラストシーン、似た者同士の二人がダイナーで食事をしている。ニーナが席を立った隙に、拳銃で頭を撃ち抜くジョー。だがお店のウエイトレスは全く動じないまま、席に伝票を置いていく。この事から、またジョーの自殺願望が見せる夢だと分かる。その後、ニーナが現実世界にジョーを引き戻す。そして「行きましょう、今日はいい天気(ビューティフルデー)よ」のセリフで一旦映画は終わり、今は誰も居ないダイナーの席が映り、そこにエンドクレジット。まるで、最初から世界に彼らは存在しなかったかの様に描かれ、彼らを主人公にした90分間の映画は終わる。なんとも言えない余韻があり、ジョーは本当に存在したのか?と思わず疑ってしまうような演出となっているのだ。


さらにこの映画を語る上で、音楽の存在は外せない。最近レビューした、ポール・トーマス・アンダーソン監督「ファントム・スレッド」でも素晴らしい仕事をしていた、ジョニー・グリーンウッドが本作の音楽を担当している。「ファントム・スレッド」はピアノとストリングス主体の静謐な曲だったが、本作はジョニー・グリーンウッドが所属する「レディオヘッド」を彷彿とさせる、アナログシンセを使ったエレクトロや、ディストーションギターのサウンドが聴ける。だが単体の楽曲というよりサウンドコラージュ的といった、もっと画にシンクロした音が多い。ノイズの使い方やその音圧を含めて、今作の雰囲気に非常にマッチしており、文句無しにカッコいい。


音楽と言えば、本作の白眉。母親を殺した暗殺者を撃ち抜き、鎮痛剤を与えて死にゆく男とジョーが二人で佇むシーン。室内にはラジオから「I’ve Never Been to Me」、日本語タイトルは「愛はかげろうのように」が流れている。二人は横たわりながら曲を聴き、共に歌詞を口ずさむ。


「I've been to paradise but I've never been to me.(楽園には辿り着いた。けど自分というものが見つけられないの)


そして、ジョーは死にゆく男と手を繋ぐ。憎き実の母親を殺した相手なのに。それは相手の尊厳を守る態度であり、ジョー人間性が現れた行動である。このシーンが観れただけでも、この映画は価値があると思えるほどに、美しく儚いシーンである。本作「ビューティフル・デイ」は、ネットでも意見が割れているようだが、かなり「感覚」で観る作品だと思う。よって、「合うor合わない」の差がはっきりと出る為、嫌いだという方も一定数いるだろう。だが、僕にはまた何度か見返したいと思うほど忘れがたい作品となった。