「散歩する侵略者」を観た。
前作「クリーピー 偽りの隣人」から、約一年ぶりの黒沢清監督の新作である。黒沢清と言えば、今やカンヌ映画祭でも何度も受賞する程の世界的な監督になっているが、その独特の作風が最大の魅力だろう。今作「散歩する侵略者」も、やはり他に類を見ない作品として良くも悪くも、とても個性的な映画であった。劇団イキウメの同名舞台が原作との事だが、舞台は未見。今回はネタバレ全開で。
監督:黒沢清
感想&解説
作品が始まり、最初の10分はニヤニヤが止まらない。冒頭、日本の何気ない家屋を映してるだけなのに、劇伴音楽とカメラワーク、編集のテンポによって、これほど「映画的」な映像になっている事にまずは驚く。そこからお婆さんが、ドアから何者かに引きずり込まれ、次に凄惨な殺人現場が映り、血塗れの女子高生が指に付いた血を舐めるカットとその効果音により、今作はなかなかハードな作風だぞと姿勢を正す事になる。その後、フラフラと道路を歩く「異星人が乗り移った女子高生」の背後で、トラックが横転する展開も含めて、掴みは完璧だ。冒頭から今作の異星人は、かなり暴力的である事が示唆され、黒沢清監督作としては「CURE」や「叫」の様なホラー路線かと期待が膨らむ。
ところがそのトーンは映画冒頭だけで、今作のメインキャラである、松田龍平演じる「加瀬真治」が病院で奥さん役「加瀬鳴海」演じる長澤まさみと会話するシーンは、明らかに真治は異星人に乗っ取られているという状態にも関わらず、牧歌的とも言えるやり取りがなされていて(アレっ?)と違和感を感じ始める。突然、映画がコメディ的なトーンに変わるのである。
またセリフ全般も、原作が舞台劇という事もあり大仰で量も多く、いわゆる説明的だ。ここから、高杉真宙が演じる「天野」がタメ口で放つ「僕は宇宙人で地球を侵略しに来た」発言や、それを聞いた長谷川博己のリアクション、宇宙への通信機器の部品を地球の電気屋で買う件、そもそも何故宇宙人3人ともに日本の狭い範囲にいるのか?の件、日本でマシンガンをブッ放す不自然な組織の存在など、とにかく全てが突っ込みどころ満載で、ますますコメディ色は強くなる。
また宇宙人たちが、地球人の「言葉の概念」を奪いながら、この星の住人を理解していくという設定があるのだが、これがなかなか苦しい。概念を奪われると、奪われた方はそれを忘れるという設定なのだが、劇中こんなシーンがある。
長澤まさみが雇われている会社の社長から、松田龍平演じる宇宙人が「仕事」という概念を奪うシーン。妻である長澤まさみが仕事に縛られていて可哀想だという理由からだが、仕事の概念を奪われた社長は、子供の様に幼児化してキャッキャと社内を走り回るのだ。これだけ観ると大人から「仕事」という概念を取ると、幼児化するという風に描かれているが、これはおかしいだろう。子供が大人に肉体的、精神的に成長する事と、仕事という概念を知る事はまったく別物の話だ。この様に、映画内のルールもかなりあやふやで、納得しづらい。
だがこの映画、何故かキライにはなれないのだ。それは前作「クリーピー」にも感じたのだが、独特のB級映画感と役者の演技、このシュールな世界観含めて、他では観た事のない映画に仕上がっているのは事実で、作り手が作品を楽しんで作っているのが伝わってくる。また、黒沢清監督がファンだと公言している、2005年スティーブン・スピルバーグ監督「宇宙戦争」へのリスペクトが溢れた終盤の空爆シーンや、宇宙からの侵略シーンにおける度を越した安っぽさ、シナリオの色々な意味での先の読めなさも含めて、ラスト直前までは結構楽しめたのは事実だ。
ただこの映画、正直ラストが頂けない。宇宙人の仲間が侵略してきた地球で、長澤まさみから「愛」という概念を盗んだ松田龍平(宇宙人)。そのまま、何故か仲間の宇宙人たちは地球侵略を止めて地球は救われ、愛を無くして無反応になった長澤まさみを松田龍平(宇宙人)が、「ずっと一緒にいるよ」と誓って映画は終わるのだが、原作があるとはいえ、この映画としてこれは考え得る最悪のラストだろう。せっかくオフビートかつシュールな世界観で最後まで笑わせてくれたのに、この中途半端にウェットなラストシーンで作品自体の方向性もボヤけてしまった気がする。しかも「愛」という特に概念として難しいものを、簡単に解決のキーワードにしてしまったばかりに、この映画の底がひどく浅く感じられ、テーマも矮小化してしまった感が強い。
確実に賛否両論ある作品だし、世界観としては面白い映画だったと思うが、色々と惜しい作品だった。ある意味で、そこが黒沢清監督作品ぽいとも言えるが。
採点:5.5(10点満点)
前作「クリーピー 偽りの隣人」の感想はこちら