「ハウス・ジャック・ビルト」を観た。
「奇跡の海」「ドッグヴィル」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」「ニンフォマニアック」とタイトルを並べるだけで、あまりの個性的な作風に頭痛がしてくる、デンマーク生まれの鬼才ラース・フォン・トリアー監督。そのラース・フォン・トリアーが、マット・ディロンを主演に迎えて、あるシリアルキラーの12年間を過激に描いたサイコスリラー作品が、本作「ハウス・ジャック・ビルト」だ。カンヌ国際映画祭で上映された際は、そのあまりの過激さに賛否両論を巻き起こし、途中退場が続出、アメリカでは修正版のみが正式上映を許可されるなど物議を醸している。大手レビューサイトRotten Tomatoesでは支持率59%と、こちらも賛否両論のようである。日本では無修正完全ノーカット版をR18+指定で上映ということで、早速鑑賞してきた。冒頭に登場するユマ・サーマンの老けっぷりに驚愕しつつ、今回もネタバレありで。
監督:ラース・フォン・トリアー
出演:マット・ディロン、ブルーノ・ガンツ、ユマ・サーマン、ライリー・キーオ
日本公開:2019年
あらすじ
1970年代のアメリカ、ワシントン州。建築家を目指すハンサムな独身の技師ジャックは、ある日、車が故障し立ち往生している女性を助ける。しかし彼は、その女性の無礼な言動から思わず彼女を殺してしまい、そこからアートを創作するように、次々と殺人に没頭していく。5つの殺人エピソードと、彼の夢である「自分の家」を建てるまでのシリアルキラーの12年間とは。
感想&解説
口が裂けても「面白い映画だった」とは言えない内容だが、映画体験としては強烈で忘れがたいものになる作品だ。過去のラース・フォン・トリアー監督作品と同じく、この映画を観て激烈に怒ったり、非難する人がいても仕方がない。いわゆる「シリアルキラーもの」「サイコパスもの」と言われる、狂った殺人鬼が次々と人を殺していく内容なのだが、本作の主人公「ジャック」のネーミングは、19世紀イギリスで大量殺人を犯した「切り裂きジャック」から来ているのだろう。特筆すべきはこの作品、ハリウッド映画では絶対に描けない「ある一線」を平然と超えてくる。とにかく、こちらの倫理的な価値観をグラグラと揺さぶり、不快にさせる描写が満載なのだ。
では、その一線とは何かと言えばこの作品を観た人なら絶対に忘れられないであろう、あの狩りのシーンだ。ここからネタバレになるが、なんと母親と幼い男の子二人を高台からライフルで狙い、しかも彼女たちを鹿の親子になぞらえて、一番小さな子供から殺していくという行為をラース・フォン・トリアーは赤裸々に描く。あまつさえ、その頭が吹き飛んでいる子供の死体と共に、母親にピクニックを強要するシーンが放つ凶々しさとあまりの不謹慎さには、思わず目を瞑りたくなる。そしてジャックはその後、母親に好きな数字を言わせて、その数字の秒数だけ逃げる時間を与えながら女を背中から撃つという非道ぶりを発揮するのだ。本作のマット・ディロン演じるジャックは、映画史でも指折りのサイコパスとして描かれていると思う。
それは彼が殺した死体を使って、写真を撮ったり、死体を変形させたりする、ジャックが「アート」と呼ぶ行為にも表れている。特に幼い弟の死体に対して彼が行う行為は余りにも非人道的だ。他にも、女性の乳房を切り取って財布にしたり、一発のフルメタルジャケット弾で何人を一気に殺せるかの実験を試みたりと、ジャックの行動には余りにも非倫理的な側面が強い。全て反キリスト的な行動なのである。だが、何故かジャックは常に警察(人の手)には捕まらない。尋問されたり、自ら死体の写真を新聞社に送ったり、死体を担いで出歩いたり、被害者が窓から大声で助けを求めても、である。特に車で死体の袋を引き摺りながら逃げるシーンで、家まで血の跡が残ってしまう場面での、突然の大雨には思わず笑ってしまった。これでは、まるでファンタジーだ。これらの描写から本作の主人公ジャックは、もはや人間の手には負えない超人的な"悪の存在"であることが示唆されていると感じた。
だからこそ本作の唐突な終盤の展開にも、監督には一貫した意図があるのだろう。60人もの死体を積み上げて作った「家」の床から、地獄への通路が続いていたという驚きのストーリー展開の事である。この時の地獄への案内人ヴァージは、イタリアの詩人ダンテが執筆した「神曲」で、ダンテを地獄案内の旅へと連れて行く詩人ウェルギリウス(英語ではヴァージル)の事らしい。ここからジャックとヴァージは地獄巡りへと向かうのである。「神曲地獄篇」での憤怒者の地獄を表現した、フランスの画家ドラクロワが描いた「ダンテの小舟」とそっくりのシーンが現れる事からも、この意図は分かりやすく表現されている。あのジャックが着る赤のローブはこの伏線だった訳である。そして最終的にジャックは地獄の底から崖を渡って逃れようとするが、最後は地獄へ落ち、映画はそのまま呆気なくエンドクレジットとなる。
エンドクレジットでかかる曲は、レイ・チャールズの「旅立てジャック」。歌詞の内容と合わせて、まさに観客の溜飲を下げる作りになっているのは上手いし、ジャックの殺人シーンでは、度々デヴィッド・ボウイの「フェイム」が使われており、名声が人生を堕落させるという内容が、自らのアートを表現したいという顕示欲にかられたジャックのキャラクターとシンクロする。更にバンの前でジャックがカメラに向かって、言葉の書かれたフリップを落としながら見せていく姿は、ボブ・ディランの「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」のMVそのままで、この辺りの表現はラース・フォン・トリアーのアメリカンロックへの偏愛が垣間見えて、興味深い。
冒頭に書いたように、とにかくラース・フォン・トリアーの悪趣味さと枠に囚われない表現の両方が体感できる、あまりにユニークな映画体験であったと思う。ただ確実に観る者を選ぶ作品だし、特に女性が一方的に殺されるシーンが多い為、不快に感じる方も少なくないだろう。また最後にこの作品、とにかく終始カメラが揺れまくり、フォーカスが合わない画が多い。もちろん殺人シーンや車での運転シーンなど、まるでジャックの隣にいるようなドキュメンタリータッチな演出を狙っていると思うが、映画館であまり前の方に座ると酔ってしまう為、この映画に関しては少しスクリーンから離れた席に座った方が良いと思う。
食事直後の鑑賞もあまりオススメしないし、若いカップルでの鑑賞も避けた方が良いかもしれない。この制約の多い感じが、なんともラース・フォン・トリアー監督作らしい。ただ、個人的には次回作も観てしまうだろうと確信出来るほど、ハリウッド作品では味わえない中毒性がある作家なのは間違いない。
採点:7.5(10点満点)