「オフィサー・アンド・スパイ」を観た。
「ローズマリーの赤ちゃん」「チャイナタウン」「戦場のピアニスト」などで有名な巨匠ロマン・ポランスキーが、19世紀フランスで実際に起きた「ドレフュス事件」を映画化したポリティカルスリラー。主人公ピカールを、「アーティスト」でアカデミー賞主演男優賞を受賞したジャン・デュジャルダン、ドレフュスを「ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語」のルイ・ガレル、ポーリーヌをロマン・ポランスキーの実妻であるエマニュエル・セニエ、ベルティヨン筆跡鑑定人を「潜水服は蝶の夢を見る」のマチュー・アマルリックがそれぞれ演じている。作家ロバート・ハリスの同名小説を映画化しており、2019年の第76回ベネチア国際映画祭では「銀獅子賞(審査員グランプリ)」、第45回セザール賞では「監督賞」「脚色賞」「衣装デザイン賞」を受賞した作品だ。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。
監督:ロマン・ポランスキー
出演:ジャン・デュジャルダン、ルイ・ガレル、エマニュエル・セニエ、マチュー・アマルリック
日本公開:2022年
あらすじ
1894年、ユダヤ系のフランス陸軍大尉ドレフュスが、ドイツに軍事機密を漏洩したスパイ容疑で終身刑を言い渡された。対敵情報活動を率いるピカール中佐はドレフュスの無実を示す証拠を発見し上官に対処を迫るが、隠蔽を図ろうとする上層部から左遷を命じられてしまう。ピカールは作家ゾラらに支援を求め、腐敗した権力や反ユダヤ勢力との過酷な闘いに身を投じていく。
感想&解説
ロマン・ポランスキー監督の新作という事でさっそく劇場に駆け付けたのだが、なるほどこれはポランスキーらしい題材の作品だと感じる。2018年公開「告白小説、その結末」以来の日本公開作なので約4年ぶりの新作だが、ポランスキー監督も88歳という年齢ながら、まったくそれを感じさせない作品だ。本作を観るにあたって、「ドレフュス事件」自体はほとんど知識がなかった為、軽く事件の概要だけ予習してから観たのだが、これが功を奏して非常にストーリーが飲み込みやすくなった。特に前半は、ドイツへ機密情報を流したというスパイ容疑でドレフュスが軍籍をはく奪され、フランス領ギニアの悪魔島に送られるまでと、主人公ピカールが防諜部長に昇格し、ドレフュスではない別の容疑者の証拠を見つけるまでの過程を、時系列を交差しながら描いていくので情報量が多い。また1894年当時のドイツとフランスとの関係などは説明がないことや、登場する関係者の名称が多くてややこしいこともあり、この「ドレフュス事件」の概要だけでも事前に押さえておいた方が理解が進むと思う。ちなみにドレフュスが送られる” 仏領ギニアの悪魔島”とは、フランクリン・J・シャフナー監督、スティーブ・マックイーン主演「パピヨン」の舞台となった島でもある。
そもそもこの「ドレフュス事件」とは、当時ドイツだけではなく、反ユダヤ主義とナショナリズムが高まっていたフランスで、ドイツ側へ軍の機密情報を流しているスパイがいるという嫌疑が広まり、その密書が発見されたことからユダヤ人であったドレフュスが逮捕されたという事件である。しかもその理由は「D」という手紙に残されたイニシャルと、筆跡が似ているというだけ。その後、防諜部のピカール中佐がドイツ大使館の掃除婦から入手した電報により、”エステラジー少佐”という新たなスパイ容疑者が浮上する。さらにドレフュスが有罪となった決定的な証拠である密書とエステラジーの手紙の筆跡が酷似しており、筆跡鑑定士の鑑定により全く同じ筆跡だと言われた事により、ドレフュスの無罪を確信するピカール。だが軍の上層部はドレフュス逮捕を正当化し続け、再審理を要求するピカールをアフリカに左遷することにより事実を隠蔽しようとする、というのが中盤までの展開である。
第一次世界大戦以前、”普仏戦争”というフランス帝国とプロイセン王国(全ドイツ帝国)の間で行われた戦争があり、フランスが敗戦、ドイツに奪われたアルザス・ロレーヌという土地の奪回を巡って、ドイツとの間に遺恨を残したという前提があること、そしてその普仏戦争の後、ユダヤ人がフランスに移り住むケースが増え、ユダヤ人の高い能力の為に彼らが金融や産業で成功する一方で、フランス市民や農民の間ではユダヤ人の成功に反発する心理が強くなっていたこと、そしてドレフュス逮捕の背景には、このフランスにおける「反ユダヤ感情」が大きく影響していることは、本作において重要な情報だと思うが、実は本作内でこの辺りはあまり解説されない。ただ主人公であるピカール中佐でさえも、実はユダヤ人に対して差別意識のある人物であったという事が描かれるシーンがあるのは、これら情報の”補助線”にはなっていると思う。いかに広い範囲でこの反ユダヤ思想が広がっていたか?を感じられるからだ。
しかもこのピカール中佐、実は上司の奥さんと不倫していたりとまったく清廉潔白な人物ではないのも、本作のひとつのポイントだろう。そんなヒーローではない”普通の人物”が、倫理観と正義感から自らが所属している「軍隊」という国家権力に抵抗していく様子が、本作の大きな魅力だからだ。ただこう聞くと、いかにもカタルシス満載の作品を想像するだろうし「歴史を変えた逆転劇」というキャッチコピーからも、歴史エンターテイメント映画のような印象を受けると思うが、本作はその真逆の映画だと思う。実に淡々と演出を積み上げていくタイプの作品で、最後まで観ても正直ほとんどカタルシスを感じない作品だ。ただそれは悪い意味ではなく、低い温度の中でポリティカルスリラーとしての純度を高めていくという作風で、あるべきところにあるべきピースがハマっていくイメージの映画なのである。個人的には、主人公が大きな組織の思惑に巻き込まれていくという内容が、2011年日本公開の「ゴーストライター」にも近いと感じたが、脚本が同じロバート・ハリスのため、影響はあるのかもしれない。
ここからネタバレになるが、軍の上官に反抗しドレフュスの冤罪を主張し続けた為、逮捕される事になったピカールに賛同した作家のエミール・ゾラが、軍の上層部を弾劾した記事「「J’Accuse!(私は弾劾する!)」を書き、その新聞が出回ることで彼らの不正が世に知られることになる。ただ当時のフランスでは反ユダヤ思想が国民の間で強かった為、これをきっかけに国を二分する大論争になり、結果的にエミール・ゾラ自身も告訴され裁判で有罪になってしまう。しかも軍の腹心であったアンリが密書の偽造を認め自決した為に、ドレフュスの再審が認められるが、結局彼は再び有罪となってしまうのだ。そう、まったくスカッとしない展開なのである。その後、新大統領の就任に伴いドレフュスは恩赦となり釈放され軍にも戻ってくるが、拘束されていた期間の待遇を考慮して階級を上げてくれと頼むドレフュスに対し、大臣にまで出世したピカールが、「それは出来ない」と断るシーンで本作は幕を閉じる。
ノンフィクションとはいえ、最後の最後までアンチカタルシスの展開で驚いてしまうが、本作においてロマン・ポランスキー監督はそこが描きたかったのではないのだろう。あえて安易な大団円ですぐに忘れられる作品ではなく、この「反ユダヤ思想」がきっかけで起こった差別による悲劇は、時代や国を越えて今でも存在している事を伝えたかったのではないかと想像できる。ロマン・ポランスキー監督は父親がユダヤ教徒であり、父母がゲットーに連行された上に母親をアウシュビッツで虐殺されたという経験を持つ。また自身もドイツに占領されたフランスにおいて、「ユダヤ人狩り」から逃れる生活をしており、それらの経験が「戦場のピアニスト」の生々しいシーンの数々を生んだことは有名な話だ。おそらく本作にも”反差別”のメッセージは託されているのだと思う。だが本作をややこしくしている要素が実はもうひとつあり、それがポランスキーが起こした”少女への淫行容疑の数々”である。これがきっかけで彼は現在もアメリカには入国できないし、映画芸術科学アカデミーも除名されているが、ポランスキーはそれらの容疑を否認しているのである。そのため見方によっては、この冤罪を主張し続けたドレフュスという存在が、ポランスキーの主張とも重なってしまい、どうにも居心地が悪いのは事実だ。もちろん本人が作品を通してそんな主張はしていないが、少しでもこんな感情を観客に抱かせてしまう事自体、作品にとって不幸なことだと感じる。「シンプルに映画を楽しみたい」、観客の希望はこれだけだからだ。
最後に本作の大きな魅力である、美術の素晴らしさについても書きたい。序盤にピカールが友人たちと田舎でピクニックをするシーンがあるのだが、これがマネの「草上の昼食」とそっくりな構図とタッチで描かれていたり、キャバレーで女性ダンサーがフレンチカンカン踊る場面では、ロートレックが描いた「ムーラン・ルージュの広告ポスター」を思い出させたりと、全体的に構図や映像のタッチが芸術的でアートを感じさせる。しかもこのキャバレーのシーンでは、基本的には二人の会話シーンが中心なのだが、その後ろでは何十人の観客やダンサーが賑わっており、画作りが非常にリッチだ。他にも、パーティシーンの豪華な衣装や装飾の数々には目を奪われるし、フェンシングの場面における二人の吐く白い息とシャツに付いた赤い血が表現する緊張感など、時代考証が大変な作品にも関わらず、まったく気の抜けた場面がないのは見事だった。「シェイプ・オブ・ウォーター」で有名なアレクサンドル・デスプラの手掛けたエンドクレジットの楽曲も、本作の余韻を活かした素晴らしい曲だったし、ロマン・ポランスキー監督の新作「オフィサー・アンド・スパイ」は映画を構成する要素が総じてクオリティが高いのは間違いない。ただ、個人的にはあまりにも贅肉を削ぎ落したストイックなイメージで、”すこし堅苦しい”という印象の作品であった。
6.5点(10点満点)