「逆転のトライアングル」を観た。
「フレンチアルプスで起きたこと」「ザ・スクエア 思いやりの聖域」などを手掛けた、スウェーデンの異才リューベン・オストルンド監督の新作が公開になった。前作に引き続き、シニカルでブラックユーモアにあふれた作品となっており、今作は”階級社会”をテーマにしたヒューマン・コメディになっている。業界内の評価も高く、第75回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した他、第95回アカデミー賞でも「作品」「監督」「脚本」の3部門にノミネートされている。しかもオストルンド監督は本作で、前作「ザ・スクエア 思いやりの聖域」に続いてパルムドールを受賞したことにより、史上3人目となる2作品連続のパルムドール受賞者となった。出演は「マティアス&マキシム」のハリス・ディキンソン、2020年8月に32歳の若さで亡くなり、本作が遺作となったチャールビ・ディーン、フィリピン女優のドリー・デ・レオン、「スリー・ビルボード」のウッディ・ハレルソンなど。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。
監督:リューベン・オストルンド
出演:ハリス・ディキンソン、チャールビ・ディーン、ドリー・デ・レオン、ウッディ・ハレルソン、ズラッコ・ブリッチ
日本公開:2023年
あらすじ
モデルでインフルエンサーとしても注目を集めているヤヤと、人気が落ち目のモデルのカール。美男美女カップルの2人は、招待を受けて豪華客船クルーズの旅に出る。船内ではリッチでクセモノだらけな乗客がバケーションを満喫し、高額チップのためならどんな望みでもかなえる客室乗務員が笑顔を振りまいている。しかし、ある夜に船が荒波に晒され海賊に襲われたことによって、一行は無人島に流れ着く。食べ物も水もSNSもない極限状態のなか、人々のあいだには生き残りをかけた弱肉強食のヒエラルキーが生まれる。そしてその頂点に君臨したのは、サバイバル能力抜群な船のトイレ清掃係だった。
感想&解説
リューベン・オストルンド監督の前作「ザ・スクエア 思いやりの聖域」は思い返しても強烈な作品で、監督の込めた悪意とブラックジョークがまるで渦になって押し寄せるような映画だった。徹頭徹尾、観客を居心地悪く落ち着かない気分にさせる作品であり、上映時間も151分と長めのため、とにかくストレスが溜まる。美術館のキュレーターという地位の高い職業に就いている主人公が、ケータイと財布を盗まれた事から容疑者にささいな復讐を行なってしまうが、実はそれが無実であり、その行動によって逆に付きまとわれるというエピソードと、”ザ・スクエア”という現代アートを巡る炎上騒動を描いたエピソードを同時に描いていくのだが、とにかく全編に亘って”気まずいエピソード”が満載で、観ていて気が滅入ってくる。個人的には監督からの主張やメッセージが強過ぎる上に、映画としての娯楽性も低く、鑑賞後グッタリしてしまうような作品だった。
それから5年後、リューベン・オストルンド監督の最新作「逆転のトライアングル」が日本公開になったのだが、前作から比べるとかなり観やすく、エンタメ性とメッセージ性が良いバランスで両立した作品になっていたと思う。とはいえ相変わらず監督の毒っ気は健在で、今回は”階級社会”をテーマに、搾取する側と搾取される側といったヒエラルキーの逆転を描いており、これが日本版タイトルの元になっているのだろう。ちなみに原題は”Triangle of Sadness”と言い、眉間のあたりに出来るシワの事らしい。ここにシワが刻み込まれる人は要注意という意味で、美容業界におけるルックスへの強迫観念を表現したタイトルのようだ。映画の構成としては3部構成となっており、第1部はカールとヤヤという二人のモデル兼インフルエンサーのカップルが、レストランでの支払いについて口論するパートになっている。自分よりも稼いでいるにも関わらず、まったく勘定を支払うつもりのないヤヤに対して、「金の問題ではない。男女は平等であるべきだ。」と告げるカール。だがヤヤは、「自分が妊娠した時、養ってもらえる相手じゃないと付き合ってる時間が無駄。」と反論する。この言い分には両者ともに理があるが、男女という立場の違いと目線の違いがハッキリと出たシーンになっていて、それぞれの言い分はまるで交わらない。これは、そもそも話している”観点”が違うからだ。そして、冒頭から”この映画はお金の話をしますよ”と告げてくるパートなのである。
この第一部にも印象的なシーンがある。ヤヤが出演するファッションショーにおいて、スタッフが観客に対して座席の移動をお願いする場面があるが、たった一人の有力者がその席に座るために、その列の全員を立たせ移動させるというシーンは、強烈に”人間の格差”を感じさせる。カールの言うように、本来はジェンダー格差も階級格差も無くすべきなのだが、残念ながら現実において人間の価値は不平等なのである。ちなみにモデル業界は、女性モデルの方が圧倒的にギャラが高いらしい。カールは冒頭のオーディションであれだけ苦労しても、男性というだけでヤヤとはすでに収入格差がある訳だ。そして豪華客船が舞台になる第二部だが、ここでは特に痛烈な特権階級への皮肉が炸裂している。船上でカールとヤヤがデッキチェアに寝転びながら、上半身裸の清掃スタッフについて会話するシーンで、カールは「ユリシーズ」を読んでいる。「ユリシーズ」はジェイムズ・ジョイスの小説で、20世紀を代表する長編と言われているが、ホメロスの神話「オデュッセイア」と意識的に同じ構造にして書かれた作品でありながら、英雄譚である「オデュッセイア」とは程遠い、寝取られ男を主人公にした卑小で滑稽な内容の物語だ。そしてこれは、”本作も崇高に見えて、実は下世話な作品ですよ”という監督からの目配せだと感じる。3部構造というのも「ユリシーズ」を意識しているのだろう。
そして、この豪華客船での金持ちたちの行動があまりに滑稽で、思わず苦笑が漏れてしまうのだ。ここからネタバレになるが、有機肥料で成功したロシア人の妻は、愛人を連れて写真撮影をしている夫を横目に、”自分たちの恵まれた生活を体験させてあげたい”とクルーの女性にプールに入れと強要する。そしてある温和な老夫婦たちは武器製造で財を成したことを公言しつつ、その手りゅう弾で命を落としてしまう。先ほどのロシア人の妻は、女性クルーだけに飽き足らず、コックも含めた船のスタッフ全員を強制的に海に放り込む。そのおかげで料理中の牡蛎が悪くなってしまい、さらに船が大揺れすることによって、ディナーパーティはゲロまみれの修羅場と化してしまうのだ。ちなみにこの客船の船長を、ウッディ・ハレルソンが演じているのだが、彼もこの船で行われる金持ちのバカげた喧噪に嫌気が差して酒浸りという設定なのだが、彼はマルクス主義者であるため、資本主義のロシア人と延々と過去の偉人による名言を言い合うというシーンがある。船内は大惨事だし、自分の妻はゲロまみれであるにも関わらず、彼らの取る行動は自分の知識をひけらかす事というシュールな場面だ。作り手はこのシーンを通して、こういったスノッブたちを茶化したいという意図なのだろう。
本作の繰り返される嘔吐や下痢のシーンは、今まで金持ちが上品に振る舞い、上流階級の人間として持っていた全ての虚栄心を、文字通り”出し切って”、人として最も恥ずかしい姿を晒け出すという意味があると思う。人前で嘔吐した時点で彼らのプライドはズタズタに引き裂かれ、スタッフも乗客も、あの船にいる全員が一旦フラットになった瞬間なのである。だからこそ海賊の登場によって漂着する事になる、第三幕における島での逆転劇が始まるのだ。経験が無いが故に、まったく漁も火を起こすことも出来ない金持ちたちに対して、サバイバル能力を発揮してその場の主導権を握るのは、トイレ清掃係の女性アビゲイルだ。自分を”リーダー”と呼ばせて、呼んだ相手にはその場で食料を渡すという見事な人心掌握術を使いつつ、イケメンであるカールを救命ボートに呼び込んで食料の代わりにセックスの相手をさせるという、今まで描かれてきた貧困と男女を超えたヒエラルキーの逆転が発生するのである。このコントラストが本作の最も面白いポイントであり、観客は様々な思考を促される。
そして、問題なのはラストにおける”あのシーン”だろう。山に食糧を探しに散策にいった、アビゲイルとヤヤが偶然見つけてしまったのはエレベーターで、漂流した島はなんとリゾート地だったのである。大喜びするヤヤに対して、アビゲイルは背後から石を持ってヤヤに近づいていく。それに気が付かないヤヤは、アビゲイルに対して「あなたを助けたいの。元の生活に戻ったら私が雇ってあげる。」と告げる。そして突然カットが変わり、カールがダッシュしているシーンでこの映画は終わる。ヤヤがどうなったのか?なぜカールがダッシュしているのか?は直接的に作品内では描かれない。だがヤヤの発言である「あなたを雇ってあげる」とはアビゲイルにとって、もう一度あの金持ちに雇用され、搾取される立場に戻ることを意味している。ここで”協力”でも”支援”でもなく、あえて”雇う”という言葉をセリフに入れているのは、意図的であろう。これはアビゲイルにとって、この島における絶対的なポジションが奪われることなのだ。しかも現時点でエレベーターの存在を知っているのは自分とヤヤだけとなれば、アビゲイルはあの後に彼女を殺しただろう。その後のカールがダッシュしているシーンは、声の出せないテレーズ経由で島には他に人がいるという情報を知り、事態を理解したポールがアビゲイルの行動を予測し、ヤヤを探しに二人の後を追っているシーンだと推測する。
リューベン・オストルンド監督の悪意あふれる三部作の最終章として、もっともエンタメ感のある作品だとは思うが、それでも作家性の強い一作なのは間違いない。特に第二章の嘔吐シーンの数々は気分の悪くなる観客がいてもおかしくないし、ラストのブツ切り演出も説明不足と感じる方はいると思う。いわゆるハリウッド映画とはまったく一線を画した、監督が撮りたい映画を撮ったという感じなのだが、それでも世界でこれほど評価されている作品を作れるのは特異なことだと思う。こうなったら監督には3作品連続のパルムドール受賞を目指して、リューベン・オストルンドにしか撮れない作品をこのまま撮ってほしい。テーマや表現的には万人受けするタイプの作品では決してないが、恐らく2023年を振り返ったときに、印象に残った一本として思い出す作品だと思う。
7.5点(10点満点)