映画「ザ・ウォッチャーズ」を観た。
強烈な作家性で世界中で熱狂的なファンを持つ、M・ナイト・シャマランの実娘であるイシャナ・ナイト・シャマランによる長編監督デビュー作。未読だがどうやら同名の原作小説があるらしい。出演は「マイ・ボディガード」「宇宙戦争」など子役時代の印象が強かったが、「イコライザー THE FINAL」など実は近作でも活躍しているダコタ・ファニング、「マンディ 地獄のロード・ウォリアー」のオルウェン・フエレ、「バーバリアン」のジョージナ・キャンベル、「ミス・サイゴン」などに出演したイギリスのミュージカル俳優であるアリスター・ブラマー、長編映画としてはほぼ新人のオリバー・フィネガンなど。なんだかんだとシャマラン映画のファンなので、娘のデビュー作も早速鑑賞してきたので、今回もネタバレありで感想を書いていきたい。
監督:イシャナ・ナイト・シャマラン
出演:ダコタ・ファニング、ジョージナ・キャンベル、オルウェン・フエレ、アリスター・ブラマー、オリバー・フィネガン
日本公開:2024年
あらすじ
28歳の孤独なアーティストのミナは、鳥籠に入った鳥を指定の場所へ届けに行く途中で、地図にない不気味な森に迷い込む。スマホやラジオが突然壊れ、車も動かなくなったため助けを求めようと車外に出るが、乗ってきた車が消えてしまう。森の中にこつ然と現れたガラス張りの部屋に避難したミナは、そこにいた60代のマデリンと20代のシアラ、19歳のダニエルと出会う。彼らは毎晩訪れる“何か”に監視されているという。そして彼らには、「監視者に背を向けてはいけない」「決してドアを開けてはいけない」「常に光の中にいろ」という、破ると殺されてしまう3つのルールが課せられていた。
感想&解説
今回、M・ナイト・シャマランは”製作”としてクレジットされているが、正直この映画はかなり父親がクリエイティブ面について口を出したのではないだろうか。実の娘の長編デビュー作なので、もちろんそれも頷けるのだが、それにしても映画の全ての要素が”シャマラン映画”ぽい。イシャナ・ナイト・シャマランは「オールド」「ノック 終末の訪問者」といった、父親の近作でセカンド・ユニットの監督を務めていたらしいが、今作はシャマランの新作だと言われても頷けてしまうくらいだ。最近活躍している二世監督としては、デヴィッド・クローネンバーグの息子であるブランドン・クローネンバーグがいて、父親の作風に近い部分はありながらもブランドンならではの独自性があるのに対して、本作にはイシャナ・ナイト・シャマランの独自性があまり感じられないのだ。
逆を言えばデビュー作でありながら、画面のクオリティはまったく素人ぽさのないプロの映像になっている。編集や構図、ライティングからグレーディングまで初々しさがまるでなく、ある程度予算をかけた安定したクオリティなので、ハリウッド映画として非常に観やすい。「衝撃の覗き見、リアリティホラー」というキャッチコピーの割には、ホラーとしての尖った表現もないし、過去に観た事のないような新鮮な場面もないのだ。そして本作のジャンルはホラーというよりはSFファンタジー映画だと思う。シャマランの過去作でいえば「サイン」や「ヴィジット」「レディ・イン・ザ・ウォーター」あたりを思い出す設定だが、そこはかとないB級映画感はジョン・カーペンターの「ザ・フォッグ」や「光る眼」あたりも彷彿とさせる。
まずペットショップで働くミナがオウムの配達を依頼されたことから、理由も分からず森から出られなくなってしまうという設定から、猛烈にシャマラン映画っぽい。原作があるとは思えないほどだ。冒頭はある男が森から抜け出そうと悪戦苦闘した挙句に、姿こそ見えないが何かモンスター的なものに捕まってしまうシーンから始まるが、ミナはこの森に迷い込んでしまったらしい。何か彼女が森に導かれる理由があるのかと思いつつ鑑賞を続けると、ミナはある建物へと辿り着き、3人の男女と出会う。年配の女性マデリンは中でもリーダー的な存在で、彼女が”鳥かご”と呼ぶこの建物には3つのルールがあることが示される。「鏡に背を向けてはいけない」「決して夜にドアを開けてはいけない」「常に光の中にいろ」、そしてそのマジックミラーの向こうから、彼女たちは毎晩何者かによって監視されるのだったという内容でストーリーは始まる。
これだけ聞くと強烈に面白そうなプロットなのだが、そこは父親譲りで、この魅力的な設定がそれほどうまく活かされない。冒頭で人々が次々に自殺していく「ハプニング」というシャマラン作品があったが、序盤の展開だけはワクワクさせられるが中盤以降に失速していく流れを思い出す。ここからネタバレになるが、少年ダニエルが「流れを変えたい」と突然マデリンとミナを締め出した動機も良く分からなかったが、そのせいで外で隠れることになった二人の前であのモンスターたちが部屋を取り囲むシーンになったことで、誰かが夜に外に出ているシーンが必要だったのかと納得させられる。脚本が妙に段取り臭いのである。絨毯の下から地下への入り口を見つける場面も、3人が何か月もあの狭い空間に住んでて一度も絨毯がズレることがなかったのか?とか、監視者たちが窓を割ろうとしてくる場面があったが、ヒビまで入れておきながら割るまで攻撃してこないのは何故?など、どうにも細かい部分が気になってしまう。
インコを放つと脱出できるボートの元まで連れていってくれるという展開にも、観客を納得させてくれる説明は特になく、ここまで来るとほとんど”何でもあり”の展開になってくる。またミナが事故で母親を亡くしたトラウマが描かれるのだが、これもシナリオ的には有効に活かされていない。ミナは「自分が母親を殺した、自分の半分は悪意なのだ」というセリフを言うが、故意に母親を殺した訳でもなく車で窓を開け閉めして口真似をしたら、母親が怒ってよそ見をしたのが事故の原因なので、このミナのセリフにあまり説得力がない。もっと彼女が悪意を持って仕掛けたイタズラが原因で母親を殺してしまったという設定にしないと、彼女のトラウマ設定が活きてこないし、そもそもこの設定自体がシナリオ的に巧く絡んでこない。このトラウマを解消することで、物語が解決する流れにならないのである。
唯一森から脱出した後の展開は、やや捻りがあって面白い。一緒に脱出したマデリンは地下施設を作った教授の妻であり既に死んでいること、そしてその正体はウォッチャーズ(妖精)と人間のハーフだったというのだ。その事実を知ったミナはキアラの家に向かうが、なぜか森から解放されたはずのウォッチャーズもキアラの家にやってくる。ミナが教授の研究室に行くことをマデリンは解っているのだから、秘密を知られたくなければその時点で待ち伏せなりすれば良いと思うのだが、この展開も謎だ。そして人間への復讐を遂げたいウォッチャーズに、同じような存在がこの世にはいるかもしれない、孤独では無いのだと告げられたことで翼を生やして飛び去っていくウォッチャーズ。そしてミナの姉が実は双子だったことが分かり、それを窓の外から眺める少女(アインリクタンの正体)が映ったところで、本作はエンドクレジットとなる。
これはミナの姉が、ウォッチャーズ(妖精)と人間のハーフだという示唆を含んでいるのだろう。不自然なくらいにミナたちの父親は画面に登場せず、ドライブに出かける母親の情緒は不安定そうだった。ウォッチャーズは姿かたちを人間そっくりに変えられるという設定なので、このラストで明かされるミナは双子だったという設定を活かすには、その展開がもっとも腑に落ちる。またミナ自身が告げた「同じような存在がこの世にはいるかもしれない」というセリフに呼応するように、赤毛の少女の姿をしたアインリクタンはミナの姉の元を訪れたというシーンだったろうし、彼女にはさらに子供が二人いることで、ウォッチャーズの血筋が広がっていくことが示唆されていたのだろう。予告で観た魅力的な設定よりもファンタジー映画的な側面の強い作品だったが、良くも悪くもシャマラン親子らしい一作だったと思う。ただイシャナ・ナイト・シャマランの次回作は、独自の作家性が発揮された作品を期待したい。
5.5点(10点満点)