映画「クワイエット・プレイス DAY 1」を観た。
ニコラス・ケイジ主演の2022年「PIG/ピッグ」で長編デビューを遂げた新鋭マイケル・サルノスキがメガホンを取った「クワイエット・プレイス」シリーズの第三弾。過去シリーズ2作で監督/脚本を務めたジョン・クラシンスキーはプロデュースと脚本を担当している。出演は「ブラックパンサー」「それでも夜は明ける」のルピタ・ニョンゴ、「ストレンジャー・シングス 未知の世界」のジョセフ・クイン、「ヘレディタリー/継承」「オールド」のアレックス・ウルフ、「ブラックアダム」「グランツーリスモ」のジャイモン・フンスーなど。今作では大都会のニューヨークが舞台となり、音に反応して人間を殺すモンスターが地球に襲来した最初の日を描くという事で、今回もネタバレありで感想を書いていきたい。
監督:マイケル・サルノスキ
出演:ルピタ・ニョンゴ、ジョセフ・クイン、アレックス・ウルフ、ジャイモン・フンスー
日本公開:2024年
あらすじ
飼い猫のフロドとともにニューヨークに暮らすサミラ。大都会ゆえに不寛容な人もいるが、そんな街での日々も、愛する猫がいれば乗り切ることができる。そんなある日、突如として空から多数の隕石が降り注ぎ、周囲は一瞬にして阿鼻叫喚に包まれる。そして隕石とともに襲来した凶暴な“何か”が人々を無差別に襲い始める。何の前触れもなく日常は破壊され、瓦礫の山となった街の中を逃げ惑うサミラは、路地裏に身を隠して息をひそめ、同じように逃げてきたエリックという男性とともにニューヨークからの脱出を計画する。
感想&解説
2018年に日本公開された、ジョン・クラシンスキー監督/脚本の「クワイエット・プレイス」は、クラシンスキー監督の実妻であるエミリー・ブラントを主演に迎えたサスペンスホラーだったが、「音を立てたら、即死。」という秀逸なコピーが表現している”音を出すとモンスターに襲われる”というキャッチーな設定で、世界中で大ヒットした作品だった。そして2021年には「クワイエット・プレイス 破られた沈黙」という続編が公開されたが、キリアン・マーフィやジャイモン・フンスーといった新キャストを追加したことで世界観も広がり、個人的にはあまりノレなかったが、こちらも好意的に受け入れられた作品だったと思う。そしてその第三弾として今回の「DAY 1」が公開されたが、例のモンスターたちが地球に襲来した最初の日を描く作品として、予告などでは発表されていたが、実際は別のテーマを描きたい作品だった気がする。
この「クワイエット・プレイス」というシリーズは、大きな声を出せないシチュエーションの中で、臨月の妊婦や赤ちゃん、怪我人などどうしても大きな声を出してしまう設定のキャラクターを置くことで、そのスリルを味わうというホラー映画シリーズだったが、今回の三作目は舞台をニューヨークに置くことで、大都会という大勢の人が生活する環境にモンスターが襲ってきたらどうなるのか?という、”ディザスター映画”に寄せたかった作品なのだと思う。さらに前述のように、いわゆる「Day1」が描かれるということで、モンスターが地球に襲撃してきた”裏側”が描かれるのかと期待したのだが、残念ながらそういう作品ではなかった。
まずこの「Day1」というタイトルだが、気付いたら空からモンスターが落ちてきていたというだけで、ほとんど展開は「破られた沈黙」の冒頭にあった野球場のシーンと変わらない。突然の出来事に人々がパニックに陥る中で、主人公キャラが生き残るための行動を見守ることになるだけだ。ミミ・レダー監督の1998年「ディープインパクト」のように、実は天文科学者は何年も前に落下してくる異星人を発見していたことから、政府だけはその情報を知っていて策を講じていたが失敗していたとか、人間たちが苦労して”音を出さない”という生き残る秘訣を見つけるエピソードなど、何か「Day1」という前日譚を描いた作品ならではのシーンが観たかったのだが、本作は単に「クワイエット・プレイス ニューヨーク編」というだけで、このサブタイトルである必然性が薄い。結局、前作までと同じパニック映画の流れになってしまうのだ。ちなみに監督が撮影監督と話し、映像演出で参考にした作品は、アルフォンソ・キュアロン監督の「トゥロモー・ワールド」だったらしい。
ディザスター映画的な大掛かりなパニック描写も数シーンしかなく、主人公である黒人女性のサミラと途中で遭遇する白人男性エリック、それから猫フロドの2人+1匹といった少人数とした旅を描く作品になっていくので、モンスターに襲われる場面はどうしてもパターンが決まってきてしまい飽きてしまう。基本的には静かに行動していたつもりがひょんなことから音を出してしまい、モンスターが襲ってくるため必死に逃げるという場面を、シチュエーションを変えて描くだけだからだ。特に本作は猫を連れているものの、まったく声を出して鳴かないお利巧な猫なのでドキドキしないし、ルピタ・ニョンゴ演じるヒロインは末期ガンに犯されているという設定なのだが、痛みによって思わず大声を上げてしまうという描写もないので、スリルとしては過去作よりも減退しているだろう。またはぐれた猫とニューヨークでバッタリと再開するシーンがサミラとエリックのそれぞれにあったが、さすがにそれは無理があるだろうとか、ラストはエリックが簡単に主人公サミラを見捨てて海に飛び込んだが、二人で逃げる手段もあったのでは?とか、相変わらずモンスターに襲われる音の条件が曖昧で自然音は全部OKという事なのか?とか、猫も動いてれば音が出るはずなのに無事なのか?とか、観ていてノイズになるシーンが多いのも事実だ。
ただし(ここからネタバレになるが)、本作はこの主人公サミラが末期ガンであるという設定によって、”ヒューマンドラマ”としての側面を強めていて、過去作と差別化を図っているのがポイントだ。サミラの目的は、ピアニストであった父親との思い出の為に彼が演奏していたジャズバーに行き、近くにあったパッツィという店のピザを食べる為だ。いわば彼女にとって、これが”人生最後の旅”なのである。そしてその道中、恐怖から生きる希望を失っていたエリックという、サミラよりも弱く”守るべき存在”が登場する。過去作では子供たちがその対象だったが、本作ではそれを白人男性という設定にしているのが面白い。そして本作でも屈指の名シーンは、エリックが燃えてしまったパッツィの店に代わり宅配ピザの箱に”パッツィ”と書き、さらにマジックショーをしてサミラを励ますジャズバーの場面だろう。
こういう本当に辛い時に他人同士が励まし合って、窮地を乗り切るという場面は過去作にはなかったが、これこそ舞台をニューヨークに設定した理由なのかもしれない。9.11という圧倒的に理不尽な暴力によって、街が襲われ多くの人が亡くなった過去があるからだ。序盤にサミラが操り人形の舞台を見ているシーンで、膨らんだ風船によって空を飛ぶ人形に表情を緩ませる描写があったが、あれは紐に操られながらも空を飛んだ人形に自分を重ね合わせたのだろう。彼女はガンという運命の紐に、人生を縛られてしまっているからだ。だからこそ風船が割れてしまったことで、彼女は劇場を出たのだと思う。本作はモンスターに襲われるようなシーンではなく、こういった人間の内面を描く場面が上手く描かれており、この監督の資質には合っていると感じる。
最後にエリックが乗れたジャイモン・フンスー演じるリーダー的な男が指揮する避難船は、この後で二作目「破られた沈黙」で登場した島にたどり着くのだろう。一方、サミラはニーナ・シモンの「フィーリング・グッド」をスピーカーで鳴らすことでモンスターを呼び寄せ、エンドクレジットとなる。ニーナ・シモンはアフロアメリカンの女性ジャズシンガーであり、黒人公民権運動に参加し黒人差別に対して政治的なメッセージを発信したことで、今でも多くのアーティストに影響を与えているシンガーだ。その中でもこの「フィーリング・グッド」は、「私は私の人生を生きる」といった心の奥から湧き出るような喜びを表現した楽曲で、サミラが自分の人生を全うしたことを表現する楽曲になっていた。彼女はもう紐が付いた”操り人形”ではないのである。個人的にマイケル・サルノスキ監督はこの「クワイエット・プレイス」シリーズよりも、もっと人間ドラマに焦点を絞った小規模作品の方が向いている気がする。特に本作「DAY 1」は観たかったものが観れなかったという意味で、やや期待ハズレの感が強い。確実に再びエヴリンを主人公にした続編が作られると思うので、ジョン・クラシンスキー本人が監督して、「クワイエット・プレイス」シリーズをしっかり完結に導いてほしいものだ。
5.5点(10点満点)