映画「フェラーリ」を観た。
「ラスト・オブ・モヒカン」「ヒート」「マイアミ・バイス」などのマイケル・マン監督が、ブロック・イェーツの著書「エンツォ・フェラーリ 跳ね馬の肖像」を原作にして、イタリアの自動車メーカーであるフェラーリ社の創業者の老年期を描いたヒューマンドラマ。第80回ベネチア国際映画祭のコンペティション部門に出品されている。主演は「パターソン」「沈黙 サイレンス」「マリッジ・ストーリー」などのアダム・ドライバー、「オール・アバウト・マイ・マザー」「それでも恋するバルセロナ」のペネロペ・クルス、「ファミリー・ツリー」「ダイバージェント」のシャイリーン・ウッドリー、「アンチヴァイラル」「複製された男」のサラ・ガドンなど。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。
監督:マイケル・マン
出演:アダム・ドライバー、ペネロペ・クルス、シャイリーン・ウッドリー、サラ・ガドン
日本公開:2024年
あらすじ
1957年。エンツォ・フェラーリは難病を抱えた息子ディーノを前年に亡くし、会社の共同経営社でもある妻ラウラとの関係は冷え切っていた。そんな中、エンツォは愛人リナとその息子ピエロとの二重生活を妻に知られてしまう。さらに会社は業績不振によって破産寸前に陥り、競合他社からの買収の危機に瀕していた。再起を誓ったエンツォは、イタリア全土1000マイルを縦断する過酷なロードレース「ミッレミリア」に挑む。
感想&解説
マイケル・マン監督作品としては、2015年「ブラックハット」から9年ぶりの作品になるが、「ブラックハット」はクリス・ヘムズワース主演だったにも関わらず、世界的にも評価が悪く、劇場公開が見送られたり日本でも早々に公開が打ち切られたりと、マイケル・マン作品史上もっとも興行成績の低い作品となってしまった事もあり、あまり印象がない映画だった。その前になるとジョニー・デップ&クリスチャン・ベール出演の2009年「パブリック・エネミーズ」まで遡るので、マイケル・マンの監督作品としては久しぶりに劇場鑑賞したというイメージだ。マン監督といえば、1995年の「ヒート」ですっかりファンになり、「ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー」まで遡って鑑賞したクチだが、「刑事グラハム/凍りついた欲望」「ラスト・オブ・モヒカン」「インサイダー」「コラテラル」など、一貫して”男たちの映画”を撮り続けてきたクリエイターだろう。
そしていよいよ本作「フェラーリ」は、元レーサーであり、一代で築き上げたイタリア屈指の自動車メーカー「フェラーリ社」の経営者でもある、エンツォ・フェラーリ59歳の一年間という”限定的な時期”を描いた作品なのだが、非常に奇妙な作品だったと思う。舞台は「フェラーリ社」が創立された1947年でも、「フォーミュラ1(F1)」で初勝利を挙げた1951年でもなく、56年に息子を筋ジストロフィーで亡くし、富裕層のみに向けた販売戦略のせいで会社の経営状態もひっ迫していた、エンツォ・フェラーリの1957年を描いた作品だ。しかも当時彼には、愛人リナ・ラルディとふたりの間に生まれた12歳の息子ピエロという存在がおり、子供の認知を迫られているというプライベートの問題も抱えていた。本作「フェラーリ」は、単純に偉大な権力者の自伝的な作品ではないのである。
「フェラーリ」は、マイケル・マン監督が構想に30年を費やした渾身の1作らしい。彼自身も相当なフェラーリ愛好家という事で、ジェームズ・マンゴールド監督の「フォードvsフェラーリ」ではエグゼクティブ・プロデューサーも務めている。ちなみに本作の主演も「フォードvsフェラーリ」のクリスチャン・ベールで決まっていたらしいが、紆余曲折あった挙句にアダム・ドライバーがエンツォ・フェラーリを演じることになったようだ。「フォードvsフェラーリ」では1966年のル・マン24時間耐久レースを舞台にしていたが、主人公はフォード・モーター社から依頼を受けた、マット・デイモン演じるカーデザイナーのキャロル・シェルビーとクリスチャン・ベール演じる変わり者の凄腕ドライバーが、強敵チームのフェラーリ社に勝つための奮闘が描かれていたので、ちょうどの「フォードvsフェラーリ」の数年前におけるイタリア:フェラーリ側を描いたのが本作だと言える。
フォード社はアメリカの企業であるため、本作「フェラーリ」でも、フォードに買収されない為に同じイタリアのフィアット社がフェラーリに電話でアプローチしてくるシーンがあったが、当時かなり厳しい状況にあったフェラーリ社が再起を賭けて挑戦したのが、本作の終盤で描かれるイタリア全土1000マイルを縦断する公道レース”ミッレミリア”だ。レースにおける戦略をエンツォ・フェラーリがそれぞれドライバーに語るように、観客に説明してくれる場面は印象的だったが、ビジネスの場におけるフェラーリは冷徹でありながらクレバーな人物であることが随所で描かれる。新人ドライバーのデ・ポルターゴの恋人リンダが女優であることから、マスコミに写真撮影されるシーンでは、親密さをアピールしているように見せかけて、”フェラーリのロゴ”が映るように彼女の腰を引き寄せたり、フォードから買収のアプローチがあるようにマスコミにフェイク情報を流させて、フィアットに金を出させるように画策したりする場面は顕著だろう。
また本作はメロドラマ的な側面も強く、一人息子を難病によって亡くしたエンツォとラウラにおける夫婦と共同経営者としての両軸の関係と、エンツォのもう一つの家族であるリナ・ラルディと息子ピエロとの関係をかなり時間をかけて描くのも特徴だ。ここからネタバレになるが、特に妻ラウラを演じたペネロペ・クルスは本作のMVPで、彼女がスクリーンに映っている時の”緊張感”は半端ない。冒頭から朝帰りしたエンツォに銃をぶっ放すシーンから始まり、銀行でエンツォのサインがないと現金化できない小切手について担当者を詰めるシーン、リナ・ラルディと隠し子の存在を車のおもちゃから知るシーン、そしてミッレミリアにて観客9人を含む死亡事故を起こしたフェラーリ社の存亡をかけ、自分の小切手を現金化した上でこれでマスコミを買収しろと夫に伝えるシーン、そして極めつけは愛人の子供は自分が死ぬまで認知するなと凄むあの顔面アップのシーンは強烈だ。
本作は今までのマイケル・マン作品の中でも、特に”強い女性"と”ダメな男”が描かれた作品なのだと思う。ラウラが郊外の地名である”カステルヴェトロ”というワードから、リナ・ラルディの存在までかぎつける勘の良さや、「銃を返してほしい」というセリフからの荒々しいセックスシーンに至る野生感、そしてフェラーリ社を存続させる為にエンツォを心身ともにコントロールする賢さとしたたかさ。一人息子を失った直後のラウラは、どうしようもない怒りと悲しみを背負っているが、ペネロペ・クルスはほとんど化粧っ気と生気の欠けた表情と突然感情を爆発させる演技、さらに銀行マンや運転手が表現するピリピリとした緊張感の演技とで、それらをシーンとして見事に表現していた。逆にアダム・ドライバーが演じたエンツォは、まるで本心を見せない男として描かれる。彼が夜でもかけている”サングラス”は、その見せない心情の象徴なのだろう。だが朝でかける時に息子ピエロを起こさないように、エンジンを押しがけして車に乗り込む姿や、一人息子の墓の前で泣き崩れるエンツォを見ていると本当は弱い男なのに、仕事では”エンツォ・フェラーリ”という強い自分を作り上げている人物だと描かれている気がする。
「ジャガーは車を売る為にレースで走るが、私はレースで勝つ為に車を売る」という名言があったが、彼はビジネスマンというよりは車を作るアーティストだ。「どんなものでも上手くいくものは、見た目も美しい」という彼のセリフもあったが、本作は孤高のアーティストでありながら、”旧時代の男”がひたすら人生の谷に落ちていく映画だったと思う。よってタイトルに惹かれて、激しいカーレースの場面を期待するとガッカリする事になるだろう。だが息子ポールと死んだ息子の墓で語り合うラストシーンは美しく、エンツォ・フェラーリという人物の混沌と葛藤、そしてその人生に巻き込まれ女性たちを描くヒューマンドラマの佳作だった。フィンチャー監督の「マンク」でアカデミー撮影賞を獲ったエリック・メサーシュメットによる撮影も一切の隙が無く、娯楽作というよりは地味な映画だが不思議と退屈なシーンはほとんどない。今回は脚本も手掛けている81歳を迎えたマイケル・マン監督による、熟練の一作だと思う。
6.5点(10点満点)