映画「ACIDE/アシッド」を観た。
Netflix映画「群がり」で長編デビューし、本作が長編2作目のジュスト・フィリッポ監督が手掛けたフランス製サバイバルスリラー。第76回カンヌ国際映画祭ミッドナイトスクリーニング部門やシッチェス・カタロニア国際映画祭に出品され、2024年セザール賞視覚効果賞にノミネートされた。出演は「ベル・エポックでもう一度」のギョーム・カネ、「シンプルな情熱」のレティシア・ドッシュ、「エゴン・シーレ 死と乙女」のマリー・ユンクなど。死の酸性雨が降り注ぐ世界という、今までになかったシチュエーションの中で必死でもがく人々を描いている。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。
監督:ジュスト・フィリッポ
出演:ギョーム・カネ、レティシア・ドッシュ、ペイシェンス・ミュンヘンバッハ、マリー・ユンク
日本公開:2024年
あらすじ
異常な猛暑に見舞われたフランスの上空に、不気味な雲が現れる。それは南米に壊滅的な被害をもたらした酸性雨を降らせる危険な雲で、人間や動物のみならず車や建造物までも溶かしてしまう恐ろしいものだった。北部の地方都市に住む中年男性ミシャルと元妻エリースは、寄宿学校に預けていた娘セルマをどうにか救出したものの、酸性雨はあらゆるものを焼き尽くすように溶かし、大勢の命を奪っていく。フランス全土が大混乱に陥るなか、一家は安全な避難場所を求めてあてどなく歩き続ける。しかし彼らの行く手にはすさまじい群衆パニックと、高濃度酸性雨のさらなる恐怖が待ち受けていた。
感想&解説
超高濃度の死の酸性雨が降り出した世界を舞台に、極限状態に陥った人々の脱出劇を描いた映画という事で、M・ナイト・シャマラン監督の「ハプニング」のような、いわゆるパニックスリラーだと思い鑑賞してきたが、さすがヨーロッパ映画だ。まったくハリウッド作品とは考え方が違うことをまざまざと見せつけられる。最近だと同じ感触の作品で、北欧デンマークから「胸騒ぎ」というスリラー映画があったが、より映画としての娯楽性を排除して、徹底的に観客を陰鬱な世界に引きずり込んでいく。タイトルの「ACIDE」とは文字通り「酸」という意味だが、この酸の雨が降り注ぐ世界でもがく人間をリアルに切り取った、陰鬱系スリラーだと言えるだろう。ハリウッドでは、流石にこのラストでは企画が通らないと感じる。
まず冒頭から労働紛争の暴動が起こっており、暴力によって会社に訴える人たちがスマホ画角で映し出される。備品を破壊し馬乗りに乗って、相手の首を絞める男が逮捕されるシーンから本作は幕を開けるのだ。それから寄宿舎で馬の世話をしている女生徒やその母親、入院して治療を受ける女性とそれに心配そうに付き添う男性の様子が描かれるのだが、段々と彼らの関係が見えてくる。馬の世話をしていたセルマと病院で付き添っていた男性ミシャルは親子であり、セルマの母親エリーズとは離婚していること、ミシャルにはすでに恋人カリンがおり彼女は何かの病気を患っていることなどだ。そして冒頭の暴動を起こしていたメンバー内にセルマの父ミシャルがいて、彼は逮捕後に仮釈放されていることなどが描写されていく。
それらと並行して、地球温暖化のせいで南米では壊滅的な被害をもたらした酸性雨を降らせる危険な雲が発生しており、その脅威がフランスにも迫ってきていることが語られる。そして遂にその酸性雨が降り出したことにより、ミシャルとエリーズが娘セルマを救いに行くことから物語は転がっていくのだ。離婚した夫婦が娘を助けるストーリーという事で、ハリウッド映画なら家族の絆が再び戻っていくという内容になりそうなのだが、本作はまったくそうはならない。逆にこの夫婦は娘の前でも常にいがみ合い、罵り合っているからだ。さらにこの父親ミシャルは車中、酸性雨に打たれボロボロの肌で助けを求める人を車内に入れないように蹴倒す男であり、母親エリーズもミシャルを利用し相手任せにしている割には、兄だけを信頼しており全ての責任をミシャルに押し付けようとする。
ここからネタバレになるが、父親ミシャルは逃げ延びようと寄った家で、水道水が酸に汚染されていないか確かめるためにその場にいた猫に水を飲ませて殺してしまうし、元妻エリーズが橋から落ちても必死に助けようとはしない。遠く離れた病院にいる恋人カリンの事しか眼中になく、時として感情的になって当たり散らす。命を助けてもらった屋敷内の母親にも、息子が腎臓病で透析を受けているという事情を知りながら食べ物を分けてくれないと愚痴を言い、大雨が降って屋敷が崩壊し出すと車を奪って逃げてしまう。娘セルマも序盤から馬糞を級友の口に押し込んだかと思えば、危機管理能力が低く、泣き喚いて助けを求めるだけのキャラクターに見えてしまうし、挙句、車の中から酸性雨でぬかるんだ野原に一人で抜け出し、父親に助けを求めるシーンには頭を抱えたくなった。そのせいで、ミシャルは足を失ってしまうのだ。
とにかくメインの登場人物たちには、まったく感情移入ができない。ミシャルは娘を大事に思ってはいるがそれよりも大事な恋人がいて、彼女の元にたどり着くためには常に弱き者を蹴落として生き残ろうとする。元妻エリーズも娘セルマも、協力し合って生き残る術を探すというよりは、試練には勝てない人物だと描かれる。そんな彼らに天から全てを溶かし、”酸の雨”が降りかかるというのは、いかにも宗教的な寓話だろう。冒頭の暴動シーンから、これでもかと人間の醜悪さを見せつけ、大気汚染や環境汚染による地球温暖化という人間の業から、この”酸の雨”は生まれたのだと突きつけてくる本作は、ペシミステックでまったく救いがない映画だ。未来への甘い期待や人間の未来などもう無いのだと、完全に希望をシャットアウトするようなラストは、会えなかった恋人と足を失くしたミシャルが「今日は疲れた」と娘に告げる場面で幕を閉じる。
電話の通じなくなった元妻エリーズの兄のその後も、恋人カリンの死因も明かされない。さらにこの酸性雨に対して、世界のリーダーや科学者たちはどのように対策し、どうするつもりなのかも一切描かれない。ただある家族がこの酸性雨から逃げ惑い、世の中の人たちと対立し、時には泣きながら、恐怖のあまり最後は失意に暮れる様子を描いただけの映画だ。そこには過去の映画で描かれてきた、自分を犠牲にして他者を救うという利他的な行動や人間の尊厳などないし、世界や世間との暖かな関わりなどもない。ひたすらに描かれるのは崩れる橋の手前で描かれていた、他人を突き落としても自分が生き残りたい人たちの生き様だけだ。極めて狭い限られたシチュエーションを描くことによって、今までのパニックスリラーで描かれてきた”英雄性”を削ぎ落し、あえて救いのない作品を作り手は目指したのだろう。そしてこれこそがいわゆるこの作り手たちが考える、”リアル”な描写なのかもしれない。この映画で描かれる人物たちは、映画が始まった段階から、他には選択肢がなくすでに”詰んで”いるのだ。
もちろんこういう映画があっても良いとは思う。だが個人的にせめてパニックスリラーやディザスター作品の中では、人々が助け合い、他者を尊重するシーンを観たいと思ってしまう。悲惨な状況を前に人々がただ傷ついていくだけの作品は、観ていて辛いものがあるからだ。もちろんこれは監督の意図なのだろうから、今の自分には合わなかったという事なのだろうし、アート表現の手法としては成立していると思う。さらに恐らく低予算映画だと思うが、家に雨が漏れ出してくる描写だけで、これだけ恐怖を感じさせるのは演出力も高いのだろうし、エリーズが溶けていく描写も強烈だった。よって本作は予告編やあらすじから受ける、いわゆる”娯楽映画”を期待してはいけない作品なのだろうと思う。ただ冒頭の暴力シーンからラストまで、”人間の醜さ”をこれでもと見せつけられる本作は、個人的にもう二度と観たくない映画であった。
3.0点(10点満点)