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映画「憐れみの3章」ネタバレ考察&解説 第2章ラストの意味は?そして何を描いている章なのか?ヨルゴス監督らしいブラックコメディの佳作!

映画「憐れみの3章」を観た。

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「ロブスター」「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」「女王陛下のお気に入り」「哀れなるものたち」など、前衛的な作品を数々発表しているギリシャの鬼才ヨルゴス・ランティモス監督による新作。日本では前作「哀れなるものたち」から約8か月という短いタームでの新作公開だ。「哀れなるものたち」がアカデミー賞で「作品賞」ほか計11部門にノミネートされ、「主演女優賞」「美術賞」「衣装デザイン賞」「メイクアップ&ヘアスタイリング賞」の4部門を受賞したこともあり、この新作への期待も高いだろう。「聖なる鹿殺し~」以来のタッグとなる、エフティミス・フィリップが共同脚本を担当しているのも本作の特徴だ。出演は前作に引き続いてのエマ・ストーンウィレム・デフォー、マーガレット・クアリーのほか、「パワー・オブ・ザ・ドッグ」「シビル・ウォー アメリカ最後の日」のジェシー・プレモンス、「アステロイド・シティ」「ザ・ホエール」のホン・チャウ、「ある少年の告白」のジョー・アルウィンなど。彼らは3つの物語の中でまったく異なる役柄を演じている。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。

 

監督:ヨルゴス・ランティモス
出演:エマ・ストーンウィレム・デフォージェシー・プレモンス、マーガレット・クアリー、ホン・チャウ、ジョー・アルウィン
日本公開:2024年    

 

あらすじ

愛と支配をめぐる3つの物語で構成したアンソロジー。選択肢を奪われながらも自分の人生を取り戻そうと奮闘する男、海難事故から生還したものの別人のようになってしまった妻に恐怖心を抱く警察官、卓越した教祖になることが定められた特別な人物を必死で探す女が繰り広げる3つの奇想天外な物語を、不穏さを漂わせながらもユーモラスに描き出す。

 

 

感想&解説

2019年公開「女王陛下のお気に入り」、2014年公開「哀れなるものたち」とはまったく違った作風の映画だ。ライティングに大型セット、VFXと画面の至るところに途轍もないコストとリソースが割かれていた凝りまくった前2作品に比べると、本作は画面に良い意味での”軽やかさ”が感じられる。もちろんこれだけの有名キャストを投入したメジャー配給の非インディーズ作品なので、上映時間も含めて”小品”ではないが、ヨルゴス・ランティモスがやや肩の力を抜いて自分の好きなことをやった作品というイメージだ。それは2012年公開「籠の中の乙女」から2018年公開「聖なる鹿殺し~」の初期作でタッグを組んでいた、エフティミス・フィリップが今回共同脚本を担当しているが、本作はかなり初期作で濃厚に感じられた、不条理さと人間への皮肉、そしてブラックジョークに溢れた映画だと思う。

本作のジャンルはコメディ、しかもシュールブラックコメディだろう。本当に初期作の雰囲気が強く、特に「籠の中の乙女」における、外の世界から子供たち守るために家から一歩も出さずに育てるという、危険な妄執にとりつかれた両親と子供たちの歪な主従関係や、「聖なる鹿殺し~」における謎の少年を家族に近づけたばかりに子どもたちに奇病が発生し、それを止めるために父親が少年のとんでもない残酷な要求を飲まされる展開、そして「ロブスター」のホテルに軟禁され、45日以内に恋人を見つけなければ動物に変えられてしまうという団体からやっと逃げ出し、独り者たちが隠れ住む団体に合流できたのにそこで恋に落ちてしまった男の悲劇を描く展開などは、この「憐れみの3章」へ連なる要素ばかりだ。籠の中の乙女」の突然始まる少女による奇怪なダンスシーンがあったが、本作でもスウェーデンのアーティストによる「BRAND NEW BITCH」という曲に合わせてエマ・ストーンが最高のダンスを踊ってくれている。(そしてエマ・ストーンの方が100倍上手い)またこの映画、音楽も非常に怖い。これも「聖なる鹿殺し」における圧迫感を感じさせる弦楽器のギーギーいう音が思い起こされるが、今回はピアノと合唱による不穏な楽曲で猛烈にこちらを落ち着かない気持ちにさせてくれる。ここからネタバレ全開で解説していくのでご注意を。

 

第一章は「R.M.F.の死」というタイトルで、ジェシー・プレモンス演じるロバートが、ウィレム・デフォー演じるレイモンドという男に屈服させられる様を延々と見せられる。「R.M.F.」という謎の男を交通事故で殺すように命じられたロバートは、一度はその依頼を断り彼の元から離れるのだが、それから妻は出ていってしまうわ、再就職は阻止されるわ、偶然出会ったと思っていた女性リタもレイモンドの息がかかっている事が解りと、レイモンドの恐ろしさをまざまざと見せつけられ、リタが殺し損ねた「R.M.F.」を連れ出し、病院でひき殺すことでもう一度レイモンドに迎え入れられるというストーリーだ。


ロバートは自分が飲むワインも決められない男であり、今まで全ての判断をレイモンドに委ねてきたことが描かれるが、やっと自分で行動を判断したことで悲劇が訪れるという救いようのない展開となる。もちろん妻サラとの出会いすらもレイモンドの計略であり、彼の手首を痛めたヘタな演技では女性はナンパできないというシーンをわざわざ入れることで、それを示唆していた。さらに”マッケンローのラケット”や”セナのヘルメット”はこの世で一点しかないものだ。それを人にプレゼントできるという点で、レイモンドは世界的な権力と金を持った人物という表現なのだろう。だがこのレイモンドが何者で、これだけ全てをコントロールできる権力がありながら殺し屋ではなく、なぜ素人のロバートやリタを使って「R.M.F.」を殺そうとしているのか?などは劇中で何も語られない。そしてこの「R.M.F.」という人物自体も、全てが謎である。

 

 

そして第二章は「R.M.F.は飛ぶ」というタイトルだ。警察官のダニエルが海洋調査に出かけた妻リズが行方不明になったことで、精神的に不安定になるが、ある日突然帰ってきたリズが別人のようになっていた事で、ダニエルの精神はますます支障をきたしてしまう。そしてリズに対して、無茶苦茶な注文をし始めるというストーリーだ。個人的にはこのストーリーが一番面白かったが、これはダニエルの精神崩壊ものだと解釈した。ちなみに二章での「R.M.F.」の役どころはタイトルが”飛ぶ”から解る通り、救助ヘリのパイロットという小さな役だ。これも観客を煙に巻いているのだろう。さて、この章は全体的に情報量が少ないのだが、帰ってきた妻リズは文字通り”とてつもない経験”を経て完全に人が変わってしまったのだろう。その”とてつもない経験”とは恐らく”人食い(カニバリズム)”なのだと思うまず調査に同行した3人は遺体で発見されており、同行したジョナサンも片足を切断するような大惨事だったにも関わらず、彼女は食欲よりも”これ”が欲しかったなどと言い、ダニエルにセックスをねだるシーンがあるが(フラッシュバックで自慰シーンもある)、これはとてつもなく不自然だ。遭難して生死がかかった状態の中で性欲があれほど高まることはないだろう。そもそも、なぜ彼女だけが五体満足で生き残れたのか。さらに他の遺体の状態については、劇中でまったく触れられていない。

 

突然チョコレートが好きになるとか猫が威嚇してくる、タバコを吸うというシーンも完全に”人が変わってしまった”、もしくは彼女の”匂い”が変わってしまったことを示唆していると思うし、さらに後半にダニエルが、指を焼いて食わせろとか肝臓を差し出せという「食人的」なセリフもこれに呼応しているのだろう。さらにダニエルが速度違反の男に発砲した後その手からの出血を舐めたり、リズが血だらけの何かを食べるシーンが一瞬だけ挟まれていた理由など、この章はすべてが同じテーマで貫かれている。レバーを取り出すために腹を切った妻リズの死体を発見した直後に、理想の妻が玄関から現れるという展開からも、あれは壊れてしまったダニエルの脳内が見せた幻想である可能性が高い。そしてその理想のリズと抱擁して第二章は終わるのだ。そもそもダニエルの無茶苦茶な要求を飲み続けているリズの精神は崩壊していたのだろうし、すでに「R.M.F.」が操縦するヘリで救助された時点で、彼女は壊れてしまっていたという解釈だ。リズが夢の話を語る、「犬の王国」の中で残り物として嫌々食べていた「チョコレート」(嫌いだったもの)とは、何の比喩なのかを考えていくと恐ろしいエピソードだったと思う。

 

そして第三章は「R.M.F.サンドイッチを食べる」というタイトルで、打って変わって”カルトセックス宗教”の話になる。オミとアカというリーダー以外とセックスをしてはいけないというルールの中、”水”を使って信者をコントロールしていく教団。そして死体に触れるだけで蘇らせる能力を持つ人物を探すという使命を受けた、エマ・ストーン演じるエミリーが中心人物となる。映画「バニシング・ポイント」や「デス・プルーフ in グラインドハウス」などで有名なダッジ・チャレンジャーを無駄に爆走させながら、元夫にレイプされたことで教団に追放されてしまったエミリーが、自ら水の無いプールで自害する妹レベッカに助けられつつ、運命の双子の姉ルースに会うために奔走するというストーリーだ。姉ルースが触れることで一章で死んだ「R.M.F.」が生き返るという展開からも、この映画全体のオチになるようなエピソードだろう。ルースを見つけたことで、エミリーが喜びのダンスを踊るシーンは本作屈指の見所だと思うが、その直後に交通事故によってルースが死んでしまう場面は、完全にコメディシーンになっており爆笑してしまった。そしてケチャップを服に飛ばしながら、サンドイッチをほおばる「R.M.F.」は結局何者なのか最後まで分からない。

 

ここまで色々と書いてきたが、最後まで観ても全く理には落ちない物語で、この165分という全編を通して何か特別なメッセージがある作品ではない気がする。それはこの「R.M.F.」という人物の正体と同じだ。この名前に意味がある訳でもなく、なにか特別な存在でもない。ただ”空虚な何か”として、彼は劇中に存在するマクガフィンに過ぎない。そしてそれは、原題の「KINDS OF KINDNESS(親切の種類)」も同じだ。いかにも意味ありげでこちらに思考を促してくるが、ただの英語的な語呂合わせ的な響きが優先されただけで、あまり意味のないタイトルな気がする。本作は、すべてが”不条理”なのだ。全体を通して描かれるのは”支配と依存”であり、ヨルゴス・ランティモス得意のブラックコメディ版「トワイライト・ゾーン」のような不思議な作品だった本作。さしずめユーリズミックスの「スウィート・ドリームス」は、本作の主題歌だろう。各章がコメディとして面白く退屈はしないが、第三章はやや冗長に感じたため、個人的にはもう少し短くても良かったなとは思う。とはいえヨルゴス・ランティモス監督の初期作が好きな方なら、満足感の高い一作だろう。

 

 

6.5点(10点満点)