映画「動物界」を観た。
フランスのアカデミー賞と呼ばれる”セザール賞”では「落下の解剖学」をしのぐ最多12部門ノミネートを達成し、本国フランスで観客動員100万人を超えるスマッシュヒットを記録したというSFスリラー。監督は2014年の長編デビュー作「ラヴ・アット・ファースト・ファイト」で注目され、本作が長編2作目となるトマ・カイエで、監督/脚本を手がけている。出演はフランソワ・オゾン監督の「彼は秘密の女ともだち」などでセザール賞に5度ノミネートされた実績のあるロマン・デュリス、「ふたりのベロニカ」などで有名なイレーヌ・ジャコブの息子であり、「Winter boy」で主演を務めた新星のポール・キルシェ、「アデル、ブルーは熱い色」のアデル・エグザルコプロス、「落下の解剖学」のサーディア・ベンタイブなど。人間がさまざまな動物に変異してしまう奇病が発生した近未来を舞台にした意欲作だ。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。
監督:トマ・カイエ
出演:ロマン・デュリス、ポール・キルシェ、アデル・エグザルコプロス、トム・メルシエ、サーディア・ベンタイブ
日本公開:2024年
あらすじ
近未来。原因不明の突然変異により、人間の身体が徐々に動物と化していく奇病が蔓延していた。さまざまな種類の“新生物”は凶暴性を持つため施設で隔離されており、フランソワの妻ラナもそのひとりだった。ある日、新生物たちの移送中に事故が起こり、彼らが野に放たれてしまう。フランソワと16歳の息子エミールは行方不明となったラナを捜すが、次第にエミールの身体に変化が起こり始める。
感想&解説
今年の夏に日本で公開された「ACIDE/アシッド」というフランス映画があったが、本作を鑑賞中にそれを思い出した。「ACIDE/アシッド」は超高濃度の死の酸性雨が降り出した世界を舞台に極限状態に陥った人々の脱出劇を描いた作品で、いわゆる”パニックホラー”かと思ったのだが、実はまったく違うジャンルの映画で、本作もそれに近いイメージを持ったからだ。本作「動物界」も、いわゆるハリウッド映画的な”娯楽性”を排除してアート映画に寄せた、いかにもヨーロッパらしい作品であり、ハリウッド映画とはまったく違う”フランス映画らしさ”が詰まった作品だったと思う。原因不明の突然変異により、人間の身体が徐々に動物と化していく奇病が蔓延した近未来という設定からは、VFXを駆使したディストピア世界を体感するようなSF作品を想像してしまうが、本作はそういったタイプの作品ではないのである。
まずこの人間が動物に変化してしまうという”奇病”について、劇中ではほとんど説明がない。どうやら2年前から突如始まったらしいことだけは冒頭の女性医師から語られるが、病気はどういう傾向の人が発症するのか?なにが原因で始まったのか?世界のどの範囲で発病しているのか?治療についてはどの程度進んでいるのか?など、映画の中ではほとんど情報がないのだ。ただ人間が突然動物に変化してしまう病気があるという、作品内のルールだけが提示され、父親のフランソワの妻であり、16歳の息子エミールの母親ラナが発病している事、さらに母親が入院している病院に二人は車を走らせているという事が表現されるのが、映画冒頭のシーンだ。まずこの冒頭の渋滞シーンからこの映画のテンポ感と演出のタッチが絶妙に表現されていて、世界観に惹き込まれる。この作品はすべてを”語りすぎない”のである。
車が動かない渋滞の中で、フランソワと目が合った見知らぬ男は「最悪だな」と語り合うのだが、その後、あるトラックの荷台の中から、半分身体が鳥に変化した”新生物”が現れる。だが周りの人々は新生物から逃げる様子は見せながらも、決してパニックには陥っていない。このシーンからも、人間の生活の中で新生物が介入している事態は”日常”なのだと表現しているのだろう。そして、二人の男たちが「世も末だな」と言葉を交わすまでが最初のシークエンスとなる。この冒頭のシーンは後半まで影響してくる重要な場面であり、この父親のフランソワはいわゆる体制に反逆する男で、「混乱を愛せ」という詩の一節を息子に伝えたりする。そして息子のエミールは父親が食べるのを止めるポテトチップスを食べることで、父への”反抗”を見せる。この二人の関係や考え方の違いを短いシーンで描いているのだ。冒頭からこの親子の喧嘩シーンで始まるのは、本作のメインテーマが父と息子の「親子愛」だからだ。
ここからネタバレになるが、母であるラナが動物に変わっていくことが受け入れられない思春期のエミールと、なんとかもう一度妻を含めた家族で暮らすことを諦めていないフランソワの元に、ラナが移送している最中のバスが事故を起こし、”新生物”たちが野に放たれてしまったという連絡が入る。そして父と息子は行方不明になったラナを森の中で探すことになるが、次第に息子エミールの身体にも変化が起こり始めるというのが中盤の展開だ。女性憲兵隊の曹長ジュリアがラナと写真とエミールを見比べて「母親似なのね」というセリフを言うシーンがあるが、この突然変異は”遺伝”による事を示唆しているのだろう。エミールは段々と父親フランソワではなく、母親ラナの方に文字通り”近づいていく”のである。だがフランソワは、そんな息子のことをなかなか理解できない。ところが映画中盤に特徴的なシーンがある。夜の森の中で車を走らせながら、フランソワが妻との思い出のフランス楽曲をかけつつ、親子で「ラナ!」「母さん!」と森に呼びかける場面があるが、このシーンは新生物になってもこれだけ妻を愛し続けられる父親を見て、息子として誇らしい気分になるのと同時に、自分がこのまま動物に変化してもきっと愛してくれるだろうという安心感を感じている場面なのだと思う。そしてフランソワもそんな息子と分かり合えていることが嬉しいのだ。ここは二人の関係が大きく動く重要な場面と思う。
そしてこの映画では、親子が一緒に”車”に乗ると関係性が変化していく。それが極限に達するのがラストシーンだろう。完全に身体が狼に変化してきており、文字も書けなくなったエミールを連れ出し、フランソワは息子を森の中に逃がすのである。これは親からの自立を意味する場面であり、永遠の子供との別れのシーンだ。今までフランソワはエミールを自分の手元に置いておきたいがゆえに、本人の気持ちを度外視して伸びてきた体毛を剃り、爪を切らせ、食べ方を注意して人間のフリをさせる。段々と”動物=母親”のようになっていく息子の変化を受け入れられなかったのである。だがこのラストシーンで、ついにフランソワはエミールの変化を受け入れることで子離れを決意し、涙目で止めていたポテトチップスを食べながら、動物になっていく息子を自然に放つのだ。このポテトチップスとはエミールの”自由意志”の象徴なのだ。個人的には2012年の細田守監督「おおかみこどもの雨と雪」におけるラストシーンで、母親である花が、完全に狼の姿になった息子の雨に向かって、吹っ切れたような笑顔で「元気で」「しっかり生きて!」と叫ぶ場面を思い出した。
だが本作に登場するほとんどの人間は、ハイブリッドである”新生物”たちを排除し隔離しようとする。人間から動物に変形した”彼ら”は異物だからだ。学生の中には「殺そう」と声高に宣言する者もいれば、自由を与えるべきだと主張する者もいて、これらの議論はまるで移民や人種差別のテーマのようだ。そんな中でエミールの変化の全てを受容するのが、ADHDという設定のニナという女子学生だ。彼女は明らかにエミールに惹かれており、彼と身体を重ねながら”新生物”としてのエミールを受け入れる。だがそんな二人の姿を見て、嫉妬のあまりエミールを迫害する男子学生も現れ、大人たちはエミールや鳥に変化しているフィクスを銃で狙う。現実社会と同じようにこの世界も、さまざまな考えの人たちによって分断している事が描かれている。この作品の脚本はコロナ禍を経て書かれたものらしいが、”パンデミック=突然変異”という、いきなりの”ルール・チェンジ”が起こった世界の中で、戸惑いながら生きる人々が描かれているのである。
変化、分断、差別、ルッキズムといったあらゆるメタファーが描かれた本作は、単なるフィクションだけのファンタジー映画ではないと思う。優れた寓話であり、観客に問題提起してくる作品だろう。ただかなりテンポが緩く、ストーリー展開に大きな起伏があるタイプの作品ではないので、上映128分が長いと感じてしまったのは事実だ。やや冗長なシーンも多く、あと20分短ければかなり印象は変わった気がする。とはいえ様々なメタファーを描いた重層的な作品としても、親子愛をシンプルに描いた映画としても、変化した”新生物”のVFXを楽しむ作品としても(スーパーで出会うタコの女性は秀逸だった)、見応えのあった本作。フランス映画界に現れた才人トマ・カイエの次回作も注目したい。
6.5点(10点満点)