映画「クラブゼロ」を観た。
「ルルドの泉で」で『第66回ベネチア国際映画祭』の国際批評家連盟賞ほか5部門を受賞した他、「リトル・ジョー」などでカンヌ国際映画祭の常連であるオーストリア出身のジェシカ・ハウスナー監督によるスリラー作品。ジェシカ・ハウスナー監督は、フィルムアカデミー・ウィーンでミヒャエル・ハネケに師事し、彼の助手も務めていたらしい。第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品。「意識的な食事」を説く栄養学教師と、彼女に心酔する生徒たちの運命を描いている。出演は「アリス・イン・ワンダーランド」のアリス役や「クリムゾン・ピーク」のミア・ワシコウスカ、「パリ、嘘つきな恋」「シモーヌ フランスに最も愛された政治家」のエルザ・ジルベルスタイン、「トムボーイ」「カンフーマスター!」のマチュー・ドゥミ、「インフェルノ」「9人の翻訳家 囚われたベストセラー」のシセ・バベット・クヌッセンなど。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。
監督:ジェシカ・ハウスナー
出演:ミア・ワシコウスカ、エルザ・ジルベルスタイン、マチュー・ドゥミ、シセ・バベット・クヌッセン
日本公開:2024年
あらすじ
名門校に赴任してきた栄養学の教師ノヴァクは、「意識的な食事」と呼ばれる最新の健康法を生徒たちに教える。それは「少食は健康的であり、社会の束縛から自分を解放することができる」というもので、無垢な生徒たちは早速実践を開始する。ノヴァクの教えに感化された生徒たちは「食べないこと」に多幸感や高揚感を抱くようになり、その言動は次第にエスカレート。両親たちが異変に気づいた時にはすでに手遅れで、生徒たちはノヴァクとともに「クラブゼロ」と呼ばれる謎のクラブに参加することになる。
感想&解説
オーストリア出身の女性監督ジェシカ・ハウスナーの作品は初見だったが、ウィーンのフィルムアカデミーでミヒャエル・ハネケに師事し、彼の助手も務めていた人物らしい。ミヒャエル・ハネケも同じくオーストリア出身の監督で、「セブンス・コンチネント」「ファニーゲーム」「隠された記憶」「白いリボン」など、単なる娯楽作品ではない強烈な印象を残す作品を撮っている巨匠だが、なるほど作風として影響を受けている点はあるのかもしれない。本作もかなり統御されたカラーコーディネートなど、映像でなければ表現できない表現に挑戦している姿勢は素晴らしいと思う。ただ本作の場合、それが最終的に映画的な興奮や快感に繋がっていかず、若干”頭でっかち”な作品になってしまっていると感じるが、そこが師匠であるミヒャエル・ハネケ監督の作品との違いかもしれない。更には「フレンチアルプスで起きたこと」「逆転のトライアングル」のリューベン・オストルンド監督の作風も感じられ、ハリウッドとは一線を画すヨーロッパ映画らしい作品になっていると思う。
本作は「洗脳」をテーマにした作品で、劇中110分をかけてそれを丹念に描いていく。そういう意味では極めてシンプルな映画だと思う。栄養学の権威で断食茶もプロデュースしている女性教師ノヴァクは、ある名門校に呼ばれたことで学生たちに栄養学の授業を行っていくが、ノヴァクは”意識的な食事”という説を唱え、”食事を取らなければ体は浄化され健康になり、己の自制心も向上し、さらに無駄のない社会が作れる”と生徒たちに教え込んでいく。「やり過ぎだ」と離脱していく生徒もいる中で、シングルマザーに育てられている優秀な男子学生、家族が海外で暮らしていて常に孤独な男子ダンサー、裕福な家庭だが母親も同じように摂食障害がある女子、リベラルな親で甘やかされて育った女子など、ノヴァクの教えに染まっていく生徒たちもおり、彼女の教えはエスカレートしていく。
ここからネタバレになるが、その中でも孤独な男子生徒フレッドと授業外でオペラを観に行ったことで、父兄たちから不謹慎だと糾弾され解雇されるノヴァク。だが子供たちはすっかりノヴァクの教えに洗脳されており、まったく食事を摂らなくなっていく。彼女は、何も食べない人々による世界的な団体、「クラブゼロ」のメンバーだったのだ。食事をしない子供たちに対して、まったく説得できないことに狼狽し疲労していく親たち。そんな中でノヴァクは子供たちも「クラブゼロ」のメンバーに引き入れることで、一層結束を固めていく。そしてクリスマスの夜、親との最後の食事を済ませた子供たちは、それぞれに書き置きを残して家を出ていく。スキー旅行に行っていたヘレンだけが残され、子供たちが失踪した理由が分からない親たちに失望を隠せない彼女が、「信念が大切」と言い放って本作は幕を閉じる。
物語の骨格は「ハーメルンの笛吹き男」そのままで、ハーメルンの町に大繁殖したネズミを駆除することを金貨100枚で依頼した市長の前に現れた笛吹きの男が、約束通りネズミを笛の音で誘導することで川に溺死させたが、金貨を払わなかったせいで子供たちは連れ去られ、二度と戻ってはこなかったというドイツの寓話がベースだろう。本作のノヴァクは「クラブゼロ」の教えに対して従順な信者であり、それを子供たちに本気で”良い考え”として啓蒙している人物だ。いわゆるカルト宗教の幹部のような立ち位置であり、その教えに生徒たちはまんまと操られていく。序盤こそ奨学金が目的で母親の作った料理を残したくないと、ひとり反骨心を見せていたベンですら、中盤には同調圧力に屈してしまい、ラストでは母親を置いてノヴァクの元に旅立ってしまうのだ。彼らはランチの時ですらお互いを監視し合い、”食べない事が正しいことだ”と正当化して抜けられなくなっていくのだが、生徒たちの極端に悪くなっていく顔色が、まるでカルト宗教から抜け出せない人たちの”人生”を描いているようで、恐ろしい描写だったと思う。
そんな中で、生徒の親たちも同時に描かれていくのが特徴的だろう。常に孤独なフレッドは完全に仕事優先の親から避けられており、入院した際にも父親しか見舞いに来ない有様で、観ていて母親は父親の再婚相手で妹は腹違いなのかも?と思ってしまった位だ。結局、最後まで海外での同居は避けられており、彼はあまりに哀しい境遇だと言える。エルサとラグナの女子組はどちらも裕福でリベラルな家庭で育てられているが、いわゆる強い家父長制を感じる。エルサの母親は自らも摂食障害があるようで、父親はそんな母娘にイラ立っているし、ラグナの父親は娘に理解を示そうとするものの、彼がノヴァクを連れてきた張本人であり、考えがコロコロと変わる。”長い物には巻かれろ”という気質が全面に出ているのだ。そんな中で唯一、根本の考えが変わらないキャラクターがベンの母親である。彼女は校長に対しても他の父兄に対しても、堂々とノヴァクを糾弾しているのだが、その変わらない姿勢をいつも”黄色のアイテム”を身に付けている事によって表現している。終盤には生徒たちのペパーミントグリーンの制服が、まるでカルト宗教のテーマカラーのように見えてくるが、かなり統御されたカラーコーディネートと画面構図の美しさは本作の特徴のひとつだろう。
「食事を減らすことで無駄を無くし、地球環境に配慮しながら、ついには格差社会も無くせる」というノヴァクの主張を聞きながら、エルサの家庭ではいつもスパニッシュ系のお手伝いさんが大量の食べ物を持ってきては、それを”いらない”と断る母娘の姿を見せつけられるし、学校の食堂ではフレッドたちがごみ箱に食料を捨てる描写があったりと、強烈な風刺が満載だ。それにしても、エルサが両親の前で嘔吐しそのゲロをもう1度食べるシーンや、エルサが昨晩食べたケーキのゲロの入ったパウチを、ベッドの下から引っ張ってきて飼い犬がペロペロするシーンなど、この映画は全体的に”吐しゃ物ネタ”が多くて本当にキツイ。こういう点も「逆転のトライアングル」を思い出してしまうが、間違っても食事の前後にはオススメできない作品だ。テーマとしてどうしてもこういう表現になってしまうのだろうが、この辺りはショッキングなシーンを作為的に作っているような気がしてしまう。
強烈にカメラの存在を意識してしまう、固定カメラなのに何故か突然ズームが多用されるカメラワークは必然性が無さすぎるし、ノヴァクがハミングするマントラのような不穏なコーラス曲や、「最後の晩餐」の構図を意識したようなエンドクレジットの際のロングテイクなど、いかにも”才気走った表現”の連続で、劇中のノヴァクのように監督自身が”私を見て”と言ってるような作品だと感じる本作。その割には伝えたいメッセージが表面的で、深みが足りないのが不満点だ。ノヴァクが実は別の意図があって生徒たちを洗脳していたなどの展開もなく、結局は「クラブゼロ」という組織の説明もない。ノヴァクが他の生徒にはどのように接していたのか?という、普通の教師としての描写もないので、彼女のキャラクターとしても説明不足で消化不良なのだ。基本的には冒頭からラストまで洗脳が進んでいくだけで展開が乏しく一本調子だし、”映画作品”として圧倒的に面白さが不足していた気がする。主演ミア・ワシコウスカの不思議な雰囲気は本作にマッチしていたが、演技力で魅せる作品でもないため、あまり彼女の印象も残らない。ショッキングな場面がある割には、なんとなく全体的に薄味な一作であったと思う。
4.0点(10点満点)