映画を観て音楽を聴いて解説と感想を書くブログ

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映画「罪人たち」ネタバレ考察&解説 最高の”音楽映画”!サプライズの出演者も含めて、ロック&ブルース好きにはたまらない一作!

映画「罪人たち」を観た。

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2014年の「フルートベール駅で」で27歳という若さでデビューして以来、「クリード/チャンプを継ぐ男」「ブラックパンサー」でマイケル・B・ジョーダンとタッグを組みながら、歴史的な大ヒット作を手掛けてきたライアン・クーグラー監督によるサバイバルホラー。脚本/製作もクーグラーが手掛けている。本国アメリカでは、完全オリジナル映画として過去10年間で米国内最大のオープニング成績を出し、2週連続No.1という特大ヒットを記録した。主演のマイケル・B・ジョーダンは双子役を1人2役で演じている他、「バンブルビー」のヘイリー・スタインフェルド、「フェラーリ」のジャック・オコンネル、「サイダーハウス・ルール」のデルロイ・リンドー、「魔法使いの弟子」のオマー・ミラーなどが共演している。またアートデザイナーや作曲家、衣装デザイナー、編集は”ライアン・クーグラー組”が結集しており、このホラー映画を支えている。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。

 

監督:ライアン・クーグラー
出演:マイケル・B・ジョーダンヘイリー・スタインフェルド、ジャック・オコンネル、デルロイ・リンドー、オマー・ミラー
日本公開:2025年

 

あらすじ

1930年代、信仰深い人々が暮らすアメリカ南部の田舎町。双子の兄弟スモークとスタックは、かつての故郷であるこの地で一獲千金を狙い、当時禁止されていた酒や音楽を振る舞うダンスホールを開店する。オープン初日の夜、欲望が渦巻く宴に多くの客が熱狂するが、招かれざる者たちの出現により事態は一変。ダンスホールは理不尽な絶望に飲み込まれ、人知を超えた者たちの狂乱の夜が幕を開ける。

 

 

感想&解説

ライアン・クーグラー監督とマイケル・B・ジョーダンによる、最高の”音楽映画”だと思う。本作の舞台は1932年のアメリカ南部ミシシッピなので、ジャンルは”ブルース”だ。映画の冒頭から、「生まれながらに真の音楽を奏でる人々がいるという。その音楽は生と死の間のベールを突き破り、過去、そして未来から霊を呼ぶ。」というシビれるテロップが入り、顔に傷を受けた少年がギターの破片を持って教会に入る場面から映画は幕を開ける。そしてその一日前に場面は飛び、マイケル・B・ジョーダン一人二役を演じる双子のスモーク&スタックが登場するのだが、彼らは音楽と酒を楽しめる酒場”クラブ・ジューク”のオープンに向けて動き出すというのが、序盤の展開となる。

その酒場のミュージシャンとしてスカウトされるのが、冒頭に登場した少年である”サミー”だ。サミーはスモーク&スタックのいとこであり、彼らにもらったギターを「チャーリー・パットンのギター」だと大事にしている。このギターはいわゆる”リゾネーター・ギター”であり、スライド奏法を多用するブルースのためのギターだ。チャーリー・パットンは”デルタブルースの帝王”と呼ばれ、ロバート・ジョンソンマディ・ウォーターズといった伝説のアーティストにも大きな影響を与えた人物である。ちなみにロバート・ジョンソンは、”十字路で悪魔に魂を売り渡して、天才的なギターテクニックを手に入れた”という「クロスロード伝説」で有名なブルース歌手&ギタリストで、彼が27歳のときに死んでいるが、元々ブルースは南部のアフリカ系アメリカ人の間から発生したジャンルだ。

 

黒人霊歌や労働歌などから発展したものといわれており、バックビートを強調したリズムとレイドバックした音像、それからフードゥやまじないの影響を感じさせる音楽の為、教会音楽とは対極をなす”悪魔の音楽”と呼ばれた歴史を持っている。だからこそサミーは教会の神父である父親に、「ギターを捨てろ」と言われていたのだが、そんなブルースはアフリカ系アメリカ人にとってのソウルミュージックであり、スモーク&スタックは自分たちが最高にブルースを楽しめる場所として、仲間を集めながらクラブ・ジュークのオープンに邁進する。地元の老齢ブルースマンであるデルタ・スリムや、呪術師でありながらスモークと縁が深いアニー、アジア人夫婦のボーとグレース、綿花畑で働くコーンブレッドなどをスカウトしていく前半は、さながら「七人の侍」のような展開でセリフ回しの巧妙さと、劇中で響くブルース・サウンドのおかげで全く退屈しない。

 

 

とにかく本作は音楽と映像のシンクロが気持ち良く、音楽がスタッカートする場面に合わせてキャラクターが行動したりと、音楽が映画全体を引っ張っている印象だ。そのもっとも特徴的なシーンは、サミーが酒場でギターを演奏すると、そこからエレキギターを持ったギタリストやDJ、多国籍なダンサーたちが入り乱れて、音もヒップホップの要素がMIXされる幻想的な場面だろう。まさにこれこそが音楽を通して表現される”自由”であり、時代や国籍、性別や肌の色などを突き抜けて、ブルースという音楽を起点に様々な文化が一体化していることを象徴した名場面だった。そして、その音に引き寄せられるように、”彼ら”が襲ってくるのである。ここからネタバレになるが、本作は”音楽映画”であると同時に”吸血鬼映画”なのだ。

 

この中盤からは、完全にジャンルがシフトして全く違う映画になっていく。この展開は、ロバート・ロドリゲス監督/クエンティン・タランティーノ脚本による、1996年公開の「フロム・ダスク・ティル・ドーン」の影響だろう。強盗犯のジョージ・クルーニータランティーノ演じる兄弟が、トップレスクラブで一夜を過ごすことになるが、そこは吸血鬼の巣食う巣窟だったという展開で、かなり本作と展開が似ているのだ。この作品も”犯罪映画風”の前半と、ヴァンパイアアクションとなる後半とがまったく違う作風になるという奇妙な映画だったが、かなり直接的な影響を感じる。そしてもちろん1930年代のアメリカ南部が舞台ということで、クー・クラックス・クランKKK)とよばれる白人至上主義団体の存在や、交通機関やトイレなどの公共施設が白人用と黒人用に分離されていたジム・クロウ法など、”黒人差別”が本作の根幹には横たわっている。

 

ブルースによって悪魔(吸血鬼)を呼んでしまったスモーク&スタックたちだが、この吸血鬼軍団はアイルランド系白人たちだ。劇中でもアイルランド民謡の「Rocky Road to Dublin」に合わせてダンスするシーンがあったが、黒人たちが自分たちの場所を迫害し、自由と命を狙ってくる”ヴァンパイア”と戦うというストーリーだが、このヴァンパイアが何のメタファーなのか?は明白だろう。決してアイルランド系移民だけを敵対視した作品ではないと思うが、それはラストでヴァンパイアとして生き残ったスタックが、ヴァンパイアたちが襲ってくるまでの黒人たちだけの時間に対して、「夕日が沈む、あの少しの間だけは自由だった。」と残すセリフが物語っている。黒人たちが助け合い誰にも干渉されず、自分たちだけの場所を目指していた時間のことを指しているのだろうが、彼らは常に”自由”ではないのだろう。このあたりのエンターメント作品にメッセージ性を巧妙に入れてくる手腕も、ライアン・クーグラーは若手の黒人監督ではジョーダン・ピールと双璧をなす存在だと思う。そして終盤のKKKの集団をスモークが皆殺しにする場面は、往年のブラックスプロイテーション映画のようで、この映画のターゲットを表している。

 

ラストといえば、なんとサミーが若きころのバディ・ガイだったという驚きの展開となっていく。そのバディ・ガイの元にスタックとメアリーが訪れるという流れなのだが、バディ・ガイは50年代から活動を続けている現存するブルースミュージシャンで、まさにこの映画のラストを飾るのに相応しい大御所だ。大画面と大音量でバディ・ガイによるギタープレイも堪能できて、最後まで最高だった本作。タイトルの「罪人たち」とは、1930年代にブルースを演奏するアフリカ系アメリカ人たちを指しているのだろうが、彼らが受け継いだブルースが発展して現在のロックミュージックがあるだけに、感慨深い。それにしてもライアン・クーグラー監督とマイケル・B・ジョーダンコンビ作には、今のところハズレ無しである。本作は最高の”音楽映画”なので、劇場での鑑賞を強くオススメしたい。

 

 

9.0点(10点満点)