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映画「メガロポリス」ネタバレ考察&解説 やりたい放題のコッポラ監督"純度100%"作品!

映画「メガロポリス」を観た。

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巨匠フランシス・フォード・コッポラが40年をかけて構想したSF叙事詩アメリカをローマ帝国に見立てた大都市ニューローマを舞台に、理想の新都市メガロポリスを通じて未来への希望を描き出す。コッポラ監督がH・G・ウェルズ原作の映画「来るべき世界」に着想を得て、1980年代より脚本を構想したが幾度も頓挫し、2021年にコッポラ監督が私財1億2000万ドルを投じたことで、2024年についに完成させた。出演は「パターソン」「沈黙/サイレンス」のアダム・ドライバー、「キャプテン・アメリカ ブレイブ・ニュー・ワールド」のジャンカルロ・エスポジート、「ワイルド・スピード/ジェットブレイク」ナタリー・エマニュエル、「フューリー」「ニンフォマニアック」のシャイア・ラブーフ、「ナショナル・トレジャー」のジョン・ボイトなど。2024年の第77回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。

 

監督:フランシス・フォード・コッポラ
出演:アダム・ドライバージャンカルロ・エスポジート、ナタリー・エマニュエル、シャイア・ラブーフジョン・ボイト
日本公開:2025年

 

あらすじ

21世紀、アメリカの大都市ニューローマでは、富裕層と貧困層の格差が社会問題化していた。新都市メガロポリスの開発を進めようとする天才建築家カエサル・カティリナは、財政難のなかで利権に固執する新市長フランクリン・キケロと対立する。さらに一族の後継を狙うクローディオ・プルケルの策謀にも巻き込まれ、カエサルは絶体絶命の危機に陥る。

 

 

感想&解説

あっという間に上映館が減って、ほとんど劇場での鑑賞を諦めかけていた「メガロポリス」を、なんとか滑り込みで鑑賞。ゴッドファーザー」「地獄の黙示録」「アウトサイダー」「タッカー」など、多くの傑作を世に残してきたフランシス・フォード・コッポラの「Virginia/ヴァージニア」から13年ぶりの監督作だが、アメリカでの評論/興行成績ともに大惨敗というニュースを受け、日本での公開も見送られるかも?と思っていたが緊急公開が決まった本作。ところが日本でも酷評の嵐のようで、一般的な評価はかなり低いようだ。実際に鑑賞してみた結果は酷評も頷ける出来で、86歳であるコッポラの頭の中を、なんの注釈と説明もなく一方的に見せられたような作品だった気がする。

フランシス・フォード・コッポラの大惨敗作といえば、1982年の「ワン・フロム・ザ・ハート」を思い出す。全編をコッポラ所有のスタジオ「ゾーイトロープ・スタジオ」で制作されたセットで撮影された恋愛映画の実験作で、「地獄の黙示録」の海外屋外ロケにおいて散々な目に遭ったコッポラが、今度は完全にコントロールできるセットだけで撮ろうと計画した映画だったが、これが大コケし巨額の制作費を回収できなかった結果、ゾーイトロープ・スタジオを売却せざるを得なくなったという作品だ。そもそもこの「地獄の黙示録」も、妻であるエレノア・コッポラが監督した80時間以上の素材の中からドライに切り取っていく、傑作メイキングドキュメンタリー「ハート・オブ・ダークネス/コッポラの黙示録」という作品で記されているが、大混乱の極みのような撮影だったようだ。撮影がうまくいかずに情緒不安定になっていくコッポラの様子が生々しく映し出されているが、彼のビジョンを具現化する映画作りにはリスクが伴うのだろう。(ただ「地獄の黙示録」はパルム・ドールを獲得し大ヒット、その後は複数のバージョン違い作品を公開する、コッポラの代表作になったのはご存知の通り)

 

「僕は金持ちではないけれど、(映画作りには)大胆に金を投じるんだ。」というのはコッポラのセリフだが、まさに86歳になってもこの意志を守り続けているのが、フランシス・フォード・コッポラ監督という人物なのだと思う。本作「メガロポリス」もワイナリーを売った私財1億2000万ドルを投じて製作した究極のインディー映画であり、監督/脚本/製作を担当した”純度100%”のコッポラ映画だからだ。ところが本作はその”純度100%”が良くない方向に作用してしまっていると感じる。長きにわたるクリエイティブパートナーとしても知られていた妻エレノアにも先立たれ、制作費も捻出している上に巨匠になってしまったコッポラがやりたい放題やったという印象で、世界観や設定も含めて、あまりに”独りよがり”な映画になってしまっている。だがこの「映画監督=アーティスト(芸術家)」による、表現こそが世の中でもっとも崇高なのだというテーマの映画なので、それも仕方ないだろう。

 

 

ここからネタバレになるが、この映画は紀元前63年の共和政ローマ政務官ルキウス・セルギウス・カティリナが、ローマで武装蜂起による政権奪取を計画した”カティリア事件”を元にしている。貧富の差が拡大し政治腐敗が深刻化する中、カティリナが債務の帳消しなどを掲げたことにより、民衆の支持を受け元老院の転覆を図るが、執政官キケロの弾劾演説によって非難され結局は鎮圧化されたという事件だ。そして本作の舞台は、古代ローマの政治文化と現代アメリカの経済格差が融合した架空の都市「ニュー・ローマ」であり、富裕層と貧困層の格差と政治腐敗は、この”カティリア事件”をベースにしながら、今のアメリカ社会への風刺となっている。そしてアダム・ドライバー演じる天才建築家カエサル・カティリナと、ジャンカルロ・エスポジート演じる市長フランクリン・キケロとの対立が物語の本軸となっていくが、ラストで大演説することによって世論を動かすのはカティリアの方であり、本作は史実とは異なりハッピーエンドへと導かれていく。

 

それにしても、コッポラの”やりたいイメージ”だけが散漫に切り貼りされたような映画だ。冒頭からカエサル・カティリナの時間を止める能力が表現されるが、なぜ彼がこの能力を使えるのか?他にも使える人はいるのか?止まっていることは他の人は認識しているのか?など、これだけ特異な能力であるにも関わらず何も説明されない。またこれはメガロポリスという都市についても同じで、市長フランクリン・キケロは悪政によって支持率を下げていることや貧民層と富裕層の格差が存在していることは分かるが、このメガロポリス以外の世界はどうなっていて、世界の中でどういう立ち位置なのか?がまるで分からない。このメガロポリスアメリカのメタファーのはずなのだが、描かれている世界が狭すぎるのだ。旧ソ連人工衛星が落ちたという場面があったが、これをあえてソ連人工衛星にした意味はなんだろうか。この人工衛星の落下が新しい都市作りのきっかけになったという事だけであれば、他国の落下物でなくても良いはずだ。

 

しかもキャラクターの誰にも感情移入できないから、観ていてまったく心が動かない。主要登場人物は、裕福な政治家たちや有力者ばかりであり、カティリナもキケロも世の中を動かしている側の上流階級の人間なので、彼らの苦悩には共感できないのだ。本作における”市井の民”はただの書き割りとしての役割しか与えられておらず、ラストの未来は明るいといったメッセージも”舞台の上から”市民を見下す構図になっており、説教臭い上に、セリフだけで説明されても映画としてのカタルシスに欠ける。おまけに画のクオリティも酷く、デジタルカメラのパキパキした画面にブラッシュアップ途中のようなVFX処理が施されていて、メガロンを顔に移植したカティリナが何故か分身して見えるシーンなど、意図も不明な上にダサいことこの上ない。キケロの娘ジュリアとカティリナがワイヤーで吊られた鉄骨でキスする場面も、背景の合成っぷりと鉄骨のプラスチックのような質感が気になって、物語に集中できないのだ。

 

カティリナというキャラクターには、多分にコッポラ自身が投影されているのだろう。芸術によって世界を良くしていく存在であり、好きな時に”時間を止められる能力”を持つ者とは、映画監督そのものだからだ。本作は”創作賛歌”であり、カティリナが発見した”メガロン”は、映画そのもののメタファーと言えるかもしれない。ラストカットで、時間が静止する中でも動き続ける赤ん坊は、”未来へ進んでいく象徴”でありコッポラ監督の人類賛歌というメッセージを感じる。また”問題解決よりも問題提起”などのセリフからコミュニケーションの重要さを訴えかけてくるが、終盤は畳みかけるようにコッポラが伝えたいことを矢継ぎ早に投げかけてくる。これらのメッセージは素晴らしいしまったく異論はないのだが、これらのセリフが映画の質を高めることになっていないのが本当に残念だ。”映画”という映像作品として、圧倒的に説得力が足りないのである。”未知に飛び込むのは、自由の証”というセリフはまさにコッポラを表現しているのだろうし、本作への映画作りへの姿勢にはリスペクトしかないが、「最愛の妻エレノアに捧ぐ」というクレジットを観て、なぜか寂しい気持ちになってしまった。いつか「メガロポリス ディレクターズカット版」が公開されるのかもしれないが、少なくても本作には過去のコッポラ作品のような”マジック”を感じられなかった。

 

 

4.0点(10点満点)