映画「スーパーマン」を観た。

「スーパー!」「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」「ザ・スーサイド・スクワッド/“極”悪党、集結」などのジェームズ・ガン監督が、過去に幾度も映画化されてきたアメコミ・ヒーローの原点「スーパーマン」を再度映画化したアクション作品。ジェームズ・ガン待望の新作があの「スーパーマン」ということで、この夏公開の洋画では屈指の期待作だろう。出演は「Pearl パール」「ツイスターズ」などのデビッド・コレンスウェット、「アマチュア」「クーリエ/最高機密の運び屋」のレイチェル・ブロズナハン、「マッドマックス/怒りのデス・ロード」「女王陛下のお気に入り」のニコラス・ホルト、「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」のエディ・ガテギ、「ビルとテッドの時空旅行/音楽で世界を救え!」のアンソニー・キャリガンなど。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。
監督:ジェームズ・ガン
出演:デビッド・コレンスウェット、レイチェル・ブロズナハン、ニコラス・ホルト、エディ・ガテギ、アンソニー・キャリガン
日本公開:2025年
あらすじ
人々を守るヒーローのスーパーマンは、普段は大手メディアのデイリー・プラネット社で新聞記者クラーク・ケントとして働き、その正体を隠している。ピンチに颯爽と駆け付け、超人的な力で人々を救うスーパーマンの姿は、誰もが憧れを抱くものだった。しかし、時に国境をも越えて行われるヒーロー活動は、次第に問題視されるようになる。恋人でありスーパーマンの正体を知るロイス・レインからも、その活動の是非を問われたスーパーマンは、「人々を救う」という使命に対して心が揺らぎはじめる。一方、スーパーマンを世界にとって脅威とみなす天才科学者で大富豪のレックス・ルーサーは、世界を巻き込む巨大な計画を密かに進行。やがて、ルーサーと彼の手下である超巨大生物KAIJUがスーパーマンの前に立ちはだかる。世界中から非難され、戦いの中で傷つきながらも、スーパーマンは再び立ち上がっていく。
感想&解説
劇場での”スーパーマン”の登場は、ザック・スナイダー監督の「ジャスティス・リーグ」以来となるが、2013年の「マン・オブ・スティール」から始まる「DCエクステンデッド・ユニバース」が志なかばで空中分解したこともあり、新たにワーナー・ブラザース傘下「DCスタジオ」の共同会長兼CEOに就任しトップとなった、ジェームズ・ガンがリブートした本作。ドラマシリーズも合わせれば多くの作品が生まれているが、今までの決定版はリチャード・ドナー監督&クリストファー・リーヴ主演の1979年日本公開の「スーパーマン」だったと思う。その後、「冒険篇」「電子の要塞」「最強の敵」という3本の続編が作られ、さらに「2」の「冒険編」からの続きものとして、ブライアン・シンガーによる「スーパーマン リターンズ」もあったが、クリストファー・リーヴが以後のスーパーマンを決定づけた存在なのは間違いないだろう。マーゴット・キダー、マーロン・ブランド、ジーン・ハックマンなどのスターキャストに囲まれて、当時新人だったクリストファー・リーヴが嬉々としてタイトルロールを演じていた名作だ。
ダークでシリアスな内容だった「マン・オブ・スティール」は、真っすぐなヒーロー像とアメリカの楽観性を提示した1979年公開版「スーパーマン」のアンチテーゼだったと思うが、今回のジェームズ・ガン版は今の厳しいアメリカの世相と分断を反映しながらも、もう一度、市井の民のために立ち上がるヒーローの姿を描いている。ただし本作のスーパーマンは、過去シリーズとは違うものを描こうとしていることが冒頭から伝えられる。なんと映画冒頭からスーパーマンが「ハンマー」という敵にボコボコにされて、墜落するシーンから始まるのだ。満身創痍で自分では立つことも出来ないスーパーマンは、口笛を吹いて愛犬”クリプト”を呼び、引きずってもらうことで”孤独の要塞”まで連れて行ってもらう。もちろん過去作でも弱点である”クリプトナイト”のせいで、窮地に立たされるシーンはあったが、これほど序盤から傷ついているスーパーマンの姿は記憶にない。
さらにグルコス大統領が統治するボラビアという架空の国家が、隣国ジャルハンプルへ侵攻し、これに介入したことで、政府と世論から反感を買いSNSで叩かれていたりと、本作の彼は心身ともに”傷だらけ”なのだ。そして恋人ロイス・レインとのインタビュー中に、それを指摘されると激高して反論するスーパーマン。過去作ではクラーク・ケントの時は人間らしく振る舞うが、ひとたび変身すれば、地球上の人類が持ち得ない強大な力を持ったほとんど”神”のような存在だったはずが、本作ではクラークの姿でいる場面はかなり少ないこともあり、”スーパーマン”と”クラーク・ケント”の間にはほとんど差がない。とにかく終始、彼は人間らしく感情を露わにして終始、息も絶え絶えだ。だがこの”弱い”スーパーマンという設定は、本作の重要なコンセプトなのだろう。
それにしても、歪な作品だと思う。基本的には新規ユーザーのための”仕切り直し”を目的としたリブートだと思うが、世界観やキャラクターについて、なんの説明も行われない。”スーパーマン=カル・エル”はクリプトン星で生まれたが、星の破壊から逃れるために父親ジョー=エルと母によって地球に送られたことや、墜落したアメリカのカンザス州に住むジョナサンとマーサに人間クラークとして育てられたこと、彼がデイリー・プラネットという新聞社に勤めていて、ロイス・レインという女性記者に憧れていることなど、基本的には”知っている”前提としてストーリーは進むわりに、旧作からかなりの変更点がある。そればかりか敵対するレックス・ルーサーは何がしたいのか?、グリーン・ランタン/ミスター・テリフィック/ホークガールといった”ジャスティス・ギャング”は、地球人や政府にとってどういう存在なのか?あの巨大怪獣はレックス・ルーサーが作り出した生物なのか?レックスの恋人はなぜジミー・オルセンにベタ惚れしている?など強引な設定の割に、それらの説明はほぼスキップして映画は進み続ける。
正直ロイス・レーンとの関係など多くの変更点があるため、旧作ファンには迎合しておらず、かといって新規ファンにも親切ではない。だから説明不足でガタガタした作品になっていると思う。ところが映画として、ジェームズ・ガンのやりたい事をギュウギュウに詰め込んだハリウッド娯楽超大作として、抜群に面白いのである。細かい辻褄を合わすことよりも、アクション演出とセリフの素晴らしさで引っ張る作品であり、鑑賞後の満足感はすこぶる高い。特にIMAXで鑑賞したこともあって画面の構成やカメラワーク、VFXのクオリティや役者の演技なども含めて、一瞬たりとも間の抜けたショットはないだろう。完全に統御され計算され尽くしたアクションシークエンスが続くので、スクリーンを観ていて眼福なのである。次元ポータル装置やポケットユニバースでの、ブラックホールにまつわるやり取りは若干退屈だったが、それでも各シーンをこれだけのクオリティで作り込めるのは、ジェームズ・ガン監督と制作スタッフの手腕だと思う。
ここからネタバレになるが、とはいえ一点だけ特に大きな変更点がある。それはクリプトン星の両親がカル・エルを地球に送った趣旨である。”生みの親より育ての親”という内容は、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」(特にVol.2)でも描かれてきたジェームズ・ガンらしいテーマだが、1978年のリチャード・ドナー版ではジョー=エル役をマーロン・ブランドが演じていただけに、これは衝撃の変更だった。本作のラストでスーパーマンは、自分の価値を決めるのは出自ではなく自らの行動であり、他人への優しさが大事であること、また自分は”人間”であって皆が強い存在なのだと宣言する。レックス・ルーサーはスーパーマンを「エイリアン」だと呼び、彼を敵対視する理由は異星人だからだと言うが、スーパーマンは”移民”のメタファーだ。そして、ひたすら落下物や崩れてくるビルから人助けをし、弱き者を救う絶対的に善良なヒーローとして描かれるスーパーマンは、排他的な悪役が作った”亀裂が入った世界”をもう一度元に戻すのである。このラストシーンにおける一連のセリフは、現実の世の中の動きとリンクしていて特別な感動を生んでいたと思う。このセリフを言わせたいが為に、今作のスーパーマンは”完全無欠”ではない、人間としてのヒーローとして設定されているのだろう。
侵略されている「ジャルハンプル」の子供がスーパーマンの名を呼ぶシーンでは、きっとここにスーパーマンが現れて喝采を受けるのだろうと想像したが、助けに来るのはジャスティス・ギャングだったり、カッコいい決めポーズの後にもまた敵にやられるシーンが続くので、シンプルにカタルシスを感じるシーンが少なかったのは物足りない。だが、それでも父親であるジョナサンと抱擁シーンや、ロイス・レインとの空中浮遊のラストシーン、育ての親との回想シーンには目頭が熱くなったし、エンドクレジットの文字フォントや出方は、78年度版へのオマージュを感じて嬉しい。最後は2026年公開の”DCユニバース (DCU)”における、シリーズ映画第2作目「スーパーガール」への目配せもバッチリで、ミスター・テリフィックやホークガールといったキャラクターも魅力的だった本作。DCUの一作目としての重責を、ジェームズ・ガンは見事に果たしたと思う。
7.5点(10点満点)