映画「ベートーヴェン捏造」を観た。

「地獄の花園」「かくかくしかじか」などの関和亮監督が、タレントであり脚本家としても活躍しているバカリズムと組んだコメディドラマ。19世紀ウィーンで起きた音楽史上最大のスキャンダルの真相に迫った、かげはら史帆によるノンフィクション原作「ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく」を、バカリズムの脚本によって映画化した作品だ。主人公シンドラーを山田裕貴、ベートーベンを古田新太が演じ、染谷将太、神尾楓珠、前田旺志郎、小澤征悦、遠藤憲一らが共演している。また人気絶頂バンドの「Mrs. GREEN APPLE」でキーボードを担当する藤澤涼架が、天才ピアニスト/作曲家のショパン役で劇映画初出演を果たしていることでも話題だ。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。
監督:関和亮
出演:山田裕貴、古田新太、染谷将太、神尾楓珠、藤澤涼架、遠藤憲一
日本公開:2025年
あらすじ
難聴というハンディキャップを抱えながらも、数々の歴史的名曲を遺した天才音楽家ベートーベン。しかし、後世に伝わる崇高なイメージは秘書シンドラーが捏造したもので、実際のベートーベンは下品で小汚いおじさんだった。かつてどん底の自分を救ってくれたベートーベンを熱烈に敬愛するシンドラーは、彼の死後、そのイメージを“聖なる天才音楽家”へと仕立て上げる。そんなシンドラーの行動は周囲に波紋を広げ、「自分こそが真実のベートーベンを知っている」という男たちの熾烈な情報戦が巻き起こる。さらに、シンドラーの嘘に気づきはじめたアメリカ人ジャーナリストのセイヤーが、真実を追及しようとする。
感想&解説
まず音楽史上でも指折りに有名なドイツ人音楽家であるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンを、あの古田新太が演じるという点だけで、どんな作品になるのか本作は興味をそそられる。原作は”かげはら史帆”氏によるノンフィクション原作「ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく」だが、本作はそれをバカリズムの脚本によって映画化した作品だ。バカリズムは「ブラッシュアップライフ」や「ホットスポット」などのドラマ脚本を手掛けているが、芸人というスキルを活かし”日本人の日常”の中に笑いを生む、ヒューマンコメディが得意な作家だと思う。一方で本作の原作は、音楽の都ウィーンを舞台にしたベートーヴェンの学術的な伝記であり、アメリカの作家アレグザンダー・ウィーロック・セイヤーや、ベートーヴェンの旧友であるフランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラーなどが登場する歴史ノンフィクションだ。まずは、この大きなギャップがこの映画の見所のひとつかもしれない。
そしてセリフ回しのバランス感覚は、脚本家バカリズムの真骨頂だろう。長髪/白髪の古田新太演じるベートーヴェンが「だってお前、○○じゃん」や「ウザいんだよ、大人しくしてろ」などの現代語を使いつつ、絶妙にオフビートな笑いを生んでいくシーンは観ていて新鮮だ。そしてこれらのセリフも笑いを取るためのではなく、あくまでベートーヴェンの尊大さの表現として使っているだけなので、ギリギリの線でコントにはなっていないのである。本作はここが肝だと思う。登場人物全員が”狙った”喋り方では、とても観ていられないからだ。キャスティングやメインビジュアルから、もっとポップでお笑いに振った作品なのかと思ったが、実はかなりシリアスな展開になっていく。山田裕貴や染谷将太といった演技派をキャスティングしている甲斐もあって、会話劇としても硬派なサスペンスとしてもしっかり楽しめるのだ。これは原作の構成も秀逸なのだろう。
そして役者たちが、いわゆる史実の人物たちの外見に近づけることはしていないのも特徴だ。衣装こそ当時のものいに近いものを着用しているらしいが、秘書アントン・シンドラーを演じた山田裕貴もセイヤーを演じた染谷将太も、大仰なカツラやメイクなどでいわゆる”外国人”を演じていないのだ。これは後述するが、この映画全体が山田裕貴が演じる音楽教師による”語り”を、中学生が聞いているという構造にしているので、スクリーンに映っているのはあくまで彼らのイメージを映像化したものとなっている。そういう意味では、日本人が外国人を演じていてもおかしくはないのだ。そして外国人のコスプレをしない事によって、本作はコント的なビジュアルになっておらず、しっかりと”映画的なルックス”が保たれている。また舞台が19世紀の海外のため、エキストラやセットの建込みを考えると莫大な予算がかかりそうだが、そこは大型LEDディスプレイに背景3DCGを表示し、その前で役者を撮影するという”バーチャル・プロダクション”という手法で撮影されているらしい。これも思ったより違和感がなく、いわゆるドラマ的な安っぽい映像にはなっていないのである。
ある中学校の放課後の場面から映画は始まり、男子学生が音楽室にいる山田裕貴演じる教師と会話を始めるのだが、彼はベートーヴェンについて語り始める。ここから始まる”物語”は、この”教師が語る物語”であるという構成だ。そして舞台は19世紀のウィーンへ移り、晩年のベートーヴェンとシンドラーの出会いが描かれる。耳の聴こえないベートーヴェンに対して献身的に尽くすシンドラーだが、彼の行き過ぎたマネジメントコントロールぶりに嫌気が指すベートーヴェン。ここからネタバレになるが、ベートーヴェンは酷い癇癪持ちだった為、シンドラーは事ある事にこき下ろされ、オペラ「魔笛」における”鳥刺し”である”パパゲーノ”と呼ばれてしまう始末だ。そして遂には必死にプロデュースし成功させた、”第九コンサート”の売り上げを持ち逃げしたと疑われたことにより、シンドラーはベートーヴェンの元から去ってしまう。
だが甥のカールが自殺未遂を起こしたことで、再びベートーヴェンの元に戻ったシンドラーは、最期の時まで秘書として穏やかな日々を過ごしながら、彼を看取る。ところがシンドラー不在の時の秘書であったホルツがベートーヴェンの伝記を書こうとしていることを知り、シンドラーは大いに焦る。実際の彼の姿が伝記で描かれてしまうと、崇高な芸術家としての幻想が崩れてしまうからだ。ホルツに先を越されまいと、旧友のヴェーゲラーに共同執筆を依頼したことで、ベートーヴェンの愛弟子だったフェルディナント・リースと出会ったシンドラーは、彼の”愛されエピソード”を聞いたことでさらに自分の秘書としてのアイデンティティを喪失してしまう。そしてシンドラーは、ついに一線を越える決意をする。筆談のために残っていた会話帳を改ざんして、自分にとって都合の良い”ベートーヴェン像”を創り出した上で伝記を完成させるのだ。だがそこにアメリカから、アレグザンダー・ウィーロック・セイヤーという音楽ジャーナリストが現れて、シンドラーの罪を糾弾するという展開になる。
終盤は膨大な時間をかけてこの手帳を書き写しながら、アメリカ人のセイヤーがシンドラーの改ざんした会話帳を謎を解き明かしていくシーンとなるが、この後のセイヤーがシンドラーを糾弾するシーンは、正論で攻めるセイヤ―に対して狂気で受け流すシンドラーの対比が面白い。彼にはベートーヴェンを英雄として後世に残すという絶対的な動機があり、その狂気はすでに常軌を逸しているのだ。その後、改めて現代に視点は戻り、教師の口から結局セイヤ―はシンドラーを訴えなかったことが語られる。そして「そもそもセイヤ―が、どこまで捏造を知り得ていたのかは分からなかったのでは?」という生徒に対して、「そうだけど、その方がドラマチックだ」と答える教師に、「先生みたいな人が過去の歴史を捏造してきたんでしょうね」と言い放つ生徒。この学校シーンは映画版オリジナルなので、まさにバカリズム節が炸裂したブラックコメディ満載の場面だと言える。セイヤ―とシンドラーが対決した事の信憑性を揺るがして、最後に観客を煙に巻くのだが、確かに”映画”としてもこの展開の方が面白いからだ。この顛末を”教師の捏造”かもしれないと示唆する2重構造が、原作と違う”映画”としての面白さだろう。このシーンを足したことが、脚本家バカリズムの最大の功績だと思う。
現在で残存している会話帳は139冊で、そもそもは1960年代に結成されたドイツ国立図書館の会話帳チームが会話帳の改ざんを見つけて発表したらしいが、シンドラーがセイヤーの取材に応じて、会話帳の一部を破棄したことを告白しているのは事実らしい。よってこの映画で描かれていることの大部分は、”ラストの対決”以外は原作を読む限り史実なのだろう。そして有名なエピソードである「交響曲第5番<運命>」の印象的な”ジャジャジャジャーン”の冒頭部が、運命の扉を叩く音だというのはどうやらシンドラーの捏造らしく、ラストの教師のセリフではないがベートヴェンの英雄性が壊れてしまうようで、歴史捏造の皮肉を感じるエピソードだ。ちなみにリース役を演じた井ノ原快彦のキャスティングは、試写会の段階ではシークレット情報でSNSなどには掲載しないようにと口止めされたことは記載しておきたい。会話中心の地味目な小品でありながらも、会話の面白さと展開の巧妙さによって最後まで飽きさせない良作だったと思う。
7.0点(10点満点)