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映画「テレビの中に入りたい」ネタバレ考察&解説 この作品のテーマとは?”ピンク・オペーク”はなんの象徴なのか?多様な解釈が可能なA24らしい怪作!

映画「テレビの中に入りたい」を観た。

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新進気鋭のジェーン・シェーンブルン監督が1990年代のアメリカ郊外を舞台した、A24製作のメランコリックスリラー。第74回ベルリン国際映画祭のパノラマ部門に正式出品、第40回インディペンデント・スピリット賞では作品賞を含む主要5部門にノミネートされた。出演は「名探偵ピカチュウ」「ジュラシック・ワールド/炎の王国」のジャスティス・スミス、「ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!」「スキャンダル」のジャック・ヘブン、「ショップリフターズ・オブ・ザ・ワールド」のヘレナ・ハワード、「ティル」「セキュリティ・チェック」のダニエル・デッドワイラー、ミュージシャンのスネイル・メイルことリーンジー・ジョーダンなど。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。

 

監督:ジェーン・シェーンブルン
出演:ジャスティス・スミス、ジャック・ヘブン、ヘレナ・ハワード、リーンジー・ジョーダン、ダニエル・デッドワイラー
日本公開:2025年

 

あらすじ

冴えない毎日を過ごすティーンエイジャーのオーウェンにとって、毎週土曜日の22時30分から放送される謎めいたテレビ番組「ピンク・オペーク」は、生きづらい現実を忘れさせてくれる唯一の居場所だった。オーウェンは同じくこの番組に夢中なマディとともに、番組の登場人物と自分たちを重ね合わせるようになっていく。しかしある日、マディはオーウェンの前から姿を消してしまう。ひとり残されたオーウェンは、自分はいったい何者なのか、知りたい気持ちとそれを知ることの怖さとの間で身動きが取れないまま、時間だけが過ぎていく。

 

 

感想&解説

「テレビの中に入りたい」はA24製作らしい、非常に尖った一作だと思う。監督のジェーン・シェーンブルンはトランス女性であり、”男女というジェンダー観には当てはまらない”と認識している、ノンバイナリーであることを公表しているが、この映画にもそのメッセージがしっかりと刻印されていた。そういう意味では、ジェーン・シェーンブルン監督の意思を発信した作品なのかもしれない。出演は、「名探偵ピカチュウ」「ジュラシック・ワールド/炎の王国」のジャスティス・スミスが主人公のオーウェンを演じ、そのオーウェンに「ピンク・オペーク」というテレビ番組を教える少女マディを、「ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!」「スキャンダル」などのジャック・ヘブンが演じている。本作はほとんどこの2名による映画だと言えるだろう。

本作で起こる出来事はかなり奇怪であり、どこからどこまでが現実なのか?が分かりにくい構造になっているが、映画を最後まで観れば、"自分の生きるべき場所"や"アイデンティティ"について描いた作品だという事がわかる。ここからネタバレになるが、オーウェンにとって「ピンク・オペーク」という番組は、”ここでは無い憧れのどこか”であり、自分が夢中になれるものの象徴だ。そしてマディの存在は「ピンク・オペーク」のキャラクターである”タラ”だし、番組そのもののメタファーでもある。それはマディが失踪したことで、彼女の家のテレビが燃えて、何故か「ピンク・オペーク」の番組自体も終了してしまうことからも示唆される。マディは「ここにいると、死因は分からないが死んでしまう」と告げて旅に出るが、再びオーウェンの前に現れると彼を”イザベル”という相棒のように扱い、番組の中に連れ戻そうとする。だがオーウェンに拒否されることで、彼女は二度と彼の元には戻らなくなるのだ。これらはほとんど現実とは思えないため、大人になったオーウェンの回想&創造なのだろう。

 

そもそも夜の10:30から始まる子供向けヒーロー番組という時点で、すでに現実感は薄いが、エピソード5の最終話はなんとピンク・オペークは”ミスター・憂鬱”によって土の中に埋められてしまうという展開になる。流石にそんな終わり方のヒーロー番組はないだろうが、これは番組の内容がマディの心境とリンクしているからだろう。オーウェンは10時15分には寝ないといけないという親からのルールに縛られている為、番組をリアルタイムで観れるのは、マディと一緒の時だけだ。よって基本的にはマディから提供される、”録画VHS”で番組を観ているのである。映画冒頭から「ピンク・オペーク」の分厚い公式本を読んでるマディは、一番のファンであると同時に番組の創造主であり、”番組そのもの”でもあるのだろう。マディがオーウェンの首の後ろに「ピンク・オペーク」のマークを書くシーンで、彼はすぐにそれを消してしまうが、彼は決して自分からヒーローにはなろうとはしない人物だ。マディにとっては最後まで”イザベル”という相棒が見つけられない為、「ピンク・オペーク」という番組であり彼女の人生の”第6章”も始められない。

 

 

逆に自分を変えるチャンスを逃したオーウェンにとって、そのマディは”もしあの選択をしていれば、自分の人生は変わったかもしれない”という後悔の象徴だ。映画の終盤では自分の生き方を変えられず、そのまま歳を取ってしまったオーウェンの姿が描かれるが、彼は両親を失った後、映画館の後に出来たゲームセンターで昔のスタッフたちとそのまま働いている。彼の人生は歳をとってもまったく前に進んでいないのだ。それでも彼は家族を持つのだが、彼が一人暗い部屋でテレビを観るシーンだけが映し出されて、その家族の姿は作品には全く映らない。そして彼はLGのテレビを買うが、その大型テレビで再び観たピンクオペークは、安っぽくつまらない作品になっているのだ。これは彼の人生はもう元には戻らないことを表現しているのだろう。オーウェンにはもう希望がないのだ。マディに「簡単に謝らないで」と言われていたオーウェンが、ゲームセンターで全ての人に謝りながら歩くシーンで、この映画は終わる。なんとペシミステックな後味の終わり方だろう。

 

そして本作のもうひとつ大きな要素としては、”セクシャルアイデンティティ”の自認という要素だ。学校の観覧席での会話で、「私は女の子が好き」と公言するマディに「あなたはどう?」と聞かれたオーウェンは、「僕はテレビ番組が好きだ」と告げる。そしてその質問に対して、「自分のお腹の中を掘り返されるようだ」と答えるが、この時点で彼は自分の性的なアイデンティティに目を伏せている。実は自分がクィアであることに薄々気付いていながら、それを自分の中で認められずにいるのだ。映画の終盤で年老いたオーウェンが、先ほどのセリフと呼応するようにゲームセンターのトイレで”自分の腹を切る”と中からテレビが現れるシーンは、彼は今でも自分のセクシャリティが認められず行動していないという表現なのだろう。だからこそ、彼の人生は一歩も前に進んでいないのだ。これはジェーン・シェーンブルン監督からの明確なメッセージだと感じる。

 

本作はオーウェンの子供時代である1996年から始まるが、その時代の音楽も監督のインスパイア元だと感じる。特に「ミスター・憂鬱(メランコリー)」の造形が、90年代から活躍しているアメリカのロックバンド「スマッシング・パンプキンズ」の「Tonight, Tonight(トゥナイト、トゥナイト)」という楽曲のMVに登場する、月のキャラクターに酷似していることや、実際にこの曲が劇中で使われていることからも影響は大きいと思う。ちなみにこの楽曲が収められているアルバムは、1995年リリースの「メロンコリーそして終りのない悲しみ」であり、番組内の”真夜中の王国”はこのアルバムの世界観を模しているのだろう。歌詞は「今夜、こんな夜をやり過ごす術が見つかる/今夜、君の人生で言葉にできないほどの瞬間が訪れる/今夜、不可能が可能になる/僕を信じてくれ、僕が君を信じるように」というもので、終盤におけるマディとオーウェンとのやり取りそのものだ。そしてこの後、マディを信じられなかったオーウェンの人生が描かれるのである。

 

広い解釈が可能な映画だと思う。なぜかオーウェンは”第4の壁”を乗り越えてカメラ目線で観客に状況を説明してくるが、そこに明確な理由は提示されない。その演出が最後まで徹底されることはないからだ。このように劇中で起こること全てのシーンに明確な説明は付けられない作品だと思うが、本作で描かれる物語は自分のアイデンティティについてなので、観た後で猛烈に刺さってしまう人がいるのも頷ける。デヴィッド・リンチ的”というレビューもあるようだが、このテレビ番組と現実が繋がっていくような悪夢的な展開はまさにその通りだと思うし、ジェーン・シェーンブルン監督の作家性も発揮された、観るたびに発見がありそうな重層的な作品だったと感じる。

 

 

7.5点(10点満点)