映画「センチメンタル・バリュー」を観た。

「テルマ」「わたしは最悪。」で世界的に注目を集めたスウェーデンのヨアキム・トリアー監督による、約4年ぶりの新作。2025年の第78回カンヌ国際映画祭ではグランプリを受賞し、第98回アカデミー賞では「作品賞」をはじめ8部門で計9ノミネートを果たした作品で、観客/評論家どちらからもかなりの高評価を得ている。助演男優賞にノミネートされたステラン・スカルスガルドは、アカデミー賞史上初めて外国語映画での助演男優賞ノミネートなった。出演は「わたしは最悪。」でも主演を務めたレナーテ・レインスヴェ、「奇跡の海」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のステラン・スカルスガルド、「ビューティフル・ライフ」のインガ・イブスドッテル・リッレオース、「プレデター バッドランド」のエル・ファニングなど。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。
監督:ヨアキム・トリアー
出演:レナーテ・レインスヴェ、ステラン・スカルスガルド、エル・ファニング、インガ・イブスドッテル・リッレオース
日本公開:2026年
あらすじ
オスロで俳優として活躍するノーラと、家庭を選び夫や息子と穏やかに暮らす妹アグネス。ある日、幼い頃に家族を捨てて以来、長らく音信不通だった映画監督の父・グスタヴが姿を現し、自身にとって15年ぶりの新作となる自伝的映画の主演をノーラに打診する。父に対し怒りと失望を抱えるノーラは断固として拒絶し、ほどなくしてアメリカの人気若手俳優レイチェルが主演に決定。やがて、映画の撮影場所がかつて家族で暮らしていた思い出の実家であることを知ったノーラの心に、再び抑えきれない感情が沸きおこる。
感想&解説
スウェーデン出身のヨアキム・トリアー監督は、「テルマ」「わたしは最悪。」と近年では最高の作品を作り続けているクリエイターだと思う。どうやらこのタイミングで今まで日本未公開だった、デビュー作の「リプライズ」や二作目「オスロ、8月31日」も公開されるようだが、特に前作の「わたしは最悪。」は最高にキュートでありながら毒っ気もあり、刺激的でありながらも思考を促される、至高の映画体験だった。2018年日本公開の「テルマ」も完全に好みの映画だったこともあり、ヨアキム・トリアー監督の新作ということだけで早速鑑賞してきた。
本作は2025年の第78回カンヌ国際映画祭ではグランプリを受賞した他、第83回ゴールデングローブ賞では「最優秀助演男優賞」、第98回アカデミー賞では「作品賞」をはじめ8部門で計9ノミネートということで、業界からはかなりの高評価を得ていて、おのずと期待は高まる。出演は「わたしは最悪。」でも主演を務めていたレナーテ・レインスヴェの他、ラース・フォン・トリアー監督作品の常連でありながら、「マイティ・ソー」や「デューン」などのハリウッド大作でもお馴染みのステラン・スカルスガルド、「ビューティフル・ライフ」のインガ・イブスドッテル・リッレオース、さらにアメリカ出身で「マレフィセント」「プレデター バッドランド」で有名なエル・ファニングなど、国際色豊かなキャストが集まっているのも魅力だろう。
それにしても、非常に繊細でガラス細工のような作品だったと思う。基本的には”家族の確執”をテーマにした作品だが、主要登場人物を映画監督や舞台女優といった、独特なアートの世界に身を置く人物に設定したことで、独自性が生まれている。冒頭、一軒の味わいのある家が映し出され、その中をバタバタと走り回る二人の女の子の姿に、ナレーションが重なってくる。この女の子の一人である主人公ノーラはこの家を”擬人化”した作文を書き、家の視点からこの姉妹を見守っていたことが描かれるが、両親が不仲になったため父親が出ていき、家中が嫌いな”静寂”に包まれることになる。そして家の壁にはひびが走っており、このひびと重なるようにタイトルが表示される。この家こそが、本作の重要なキャラクターのひとりだとでも言わんばかりの演出だ。
姉であるノーラはオスロで舞台女優として活躍しているが、本番前に舞台から逃げてしまうような不安定な精神状態だ。だがひとたび舞台に立てば、観客から大喝采を受ける天才肌であり、同じ劇団の妻帯者と不倫関係になっている。妹のアグネスは昔、父親の映画に子役で出演にしていたが、いまは夫と息子と一緒に幸せな家庭を築いている。そして父親のグスタヴは著名な映画監督であり、離婚した妻の死をきっかけに姉妹の前に突然現れて、ノーラに15年ぶりの復帰作の主演を依頼する。だがノーラはその身勝手な言い分に怒り、その依頼を断ってしまう。そのためグスタヴは、自身の作品の回顧展で知り合ったアメリカ人女優のレイチェルを代役に立て撮影を始めるが、資本にNetflixが入ったためにセリフは英語に変えられ、レイチェル自身も役作りに悩むことになる。
ここからネタバレになるが、レイチェルがなぜ自分が演じるキャラクターがラストシーンで自殺することになるのか?をグスタヴに聞き、彼の母親の自殺と関係があるのか?と疑うシーンがあるが、レイチェルはこの役のことが分からないと言い、最後には辞退してしまう。彼女は自分が演じるべきではないと言い、本当に演じるべきはノーラであることを看破する。脚本を読んだ妹アグネスもこれはノーラについて書いた脚本だと言い、彼女に脚本を渡すシーンがあるが、恐らくこれは”アテガキ”だったのだろう。ノーラが演じることを想像しながらグスタヴは脚本を執筆したため、家族ではないレイチェルには演じられない役であり、撮影途中から明らかにグスタヴもそのことに気付いている。映画監督であるグスタヴは、今までの家族への贖罪を”映画”という形にして、表現したかったのだと思う。素直に感情を言葉にできず”作品”というフィルターを通さないと表現できない、非常に面倒くさい人物なのである。ちなみに孫へのプレゼントに、ギャスパー・ノエ監督の「アレックス」とミハエル・ハネケ監督の「ピアニスト」のDVDをチョイスしていたが、どちらも絶対に子供に見せてはいけない映画だ。ここからもグスタヴの変人性が垣間見える。
グスタヴは7歳の時に母親が自殺しており、彼女はナチズムに抵抗したせいで強制収容所に入れられ、拷問を受けるという過去があったらしい。そして娘のノーラも、かつて自殺未遂を起こしていたことが描かれ、世代を超えてリンクする。さらにグスタヴの過去作では、戦争によって弟と離れ離れになる少女を妹アグネスに演じさせており、今回の15年ぶりの復帰作でも母親役をノーラに演じさせ、さらにその息子役をアグネスの息子に演じさせている。そしてその舞台を、”あの家”に設定しているのである。ラストでは家族で暮らした家はリフォームされて、おそらく売却されたのだろうが、それでもセットで再びあの家を再現することで、グスタヴはひたすらにこの映画を「家族の軌跡」として後世に残そうとするのである。グスタヴにとって、この映画と家自体が、「センチメンタル・バリュー(個人的な思い入れ)」の結晶なのだろう。
だからこそこの映画のラストカットは、映画のセットで視線を交わし合う監督と女優であり、父と娘の二人の表情だ。日常の会話ではぶつかってしまう二人が、映画という作品を通して無言の会話を交わす。そこには父(監督)への信頼があり、娘(女優)の成長を喜ぶ気持ちがある。そしてセットの家には例の”ひび”はなく、狭い家の中では手持ちカメラしか使えなかったが、セットにしたことで足の悪くなった旧友のカメラマンも起用できる。結果的にグスタヴが表現したい世界観とシーンが伸び伸びと表現できているのだ。彼らは全員、似た者同士の”アーティスト”なのである。幼少期のノーラとアグネスを演じているのは、ヨアキム・トリアー監督の実娘らしいので、グスタヴは明らかに監督自身の投影だろう。だからこそ正直この映画は、自分のような凡人には退屈に思えた。ヨアキム・トリアーという事で期待値が高すぎたこともあるが、どこかキャラクターたちの言動に興味が持てずに、感情移入を妨げられる印象なのだ。また作品のテーマもあるが、あまりにも生真面目で抜け感がないのも辛い。繊細で上品な決して悪い作品ではないのだが、自分とはやや合わない映画だった。
5.5点(10点満点)