映画「私がやりました」を観た。
「まぼろし」「スイミング・プール」「8人の女たち」などのフランス人監督フランソワ・オゾンが、映画プロデューサー殺人事件をめぐって3人の女性たちが繰り広げる騒動を、軽妙洒脱に描いたコメディミステリー。本国フランスでは100万人を動員したらしい。出演は「悪なき殺人」のナディア・テレスキウィッツ、「シモーヌ フランスに最も愛された政治家」のレベッカ・マルデール、「愛、アムール」「エル ELLE」のイザベル・ユペール、「危険なプロット」のファブリス・ルキーニ、「パリタクシー」のダニー・ブーンなど。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。
監督:フランソワ・オゾン
出演:ナディア・テレスキウィッツ、レベッカ・マルデール、イザベル・ユペール、ファブリス・ルキーニ、ダニー・ブーン
日本公開:2023年
あらすじ
パリの大豪邸で有名映画プロデューサーが殺害され、新人女優マドレーヌが容疑者として連行された。マドレーヌはプロデューサーに襲われて自分の身を守るために撃ったと供述し、親友である弁護士ポーリーヌとともに法廷に立つ。正当防衛を訴える鮮やかな弁論と感動的なスピーチは裁判官や大衆の心をつかみ、マドレーヌは無罪を勝ち取ったのみならず、悲劇のヒロインとしてスターの座を手に入れる。そんな彼女たちの前にかつての大女優オデットが現れ、プロデューサー殺しの真犯人は自分だと主張する。
感想&解説
フランソワ・オゾンの新作を久しぶりに劇場で鑑賞した気がする。元々非常に多作な監督で、今年も「すべてうまくいきますように」「苦い涙」と公開作が続いているし、本当に色々なジャンルの作品が撮れるクリエイターでもあるが、特に2002年公開の「8人の女たち」は、フランソワ・オゾン屈指の代表作ではないだろうか。舞台は1950年代のフランス、クリスマスイブの朝に雪に埋もれた大邸宅で一家の主人マルセルが殺されているのが発見され、その容疑者たちが邸宅に集まった8人の女たちだったというストーリーで、カトリーヌ・ドヌーブ、イザベル・ユペール、エマニュエル・ベアールといった豪華なキャスト陣が、歌とダンスを交えつつ、軽めの推理劇を披露する作品だった。本格ミステリを期待すると肩透かしを食うが、ミステリーとコメディの絶妙なバランスが面白く、いかにもフランス映画らしいオシャレで独特な雰囲気の映画だったと思う。
そして本作「私がやりました」も、この”ミステリーとコメディの融合”という意味では、「8人の女たち」と同じ雰囲気を持った作品だと思う。殺人をテーマにしているが、決して”犯人当て”や”推理ロジック”の方向にはいかず、あくまで”殺人事件”というシチュエーションだけを利用してストーリーを転がしていく。「8人の女たち」と同じく、宣伝文句にあるような「極上のミステリー」ではないのだ。本作はあくまで軽妙洒脱な”スクリューボールコメディ作品”だ。そしてこの映画でもっとも面白いのは、”自分が殺人犯人である”という事を主張し合う女性たちの設定だろう。各々キャラクターの設定が違う、ナディア・テレスキウィッツ、レベッカ・マルデール、イザベル・ユペールが演じている三人の女性たちが魅力的に描かれていることで、本作はかなり成功していると思う。特に新人女優マドレーヌと弁護士ポーリーヌは、”嘘”をついて成功を納めるキャラクターなので、本来は観客の感情移入を得にくい人物なのだが、本作では冒頭から彼女たちの将来への不安や金銭的な苦労、頼りない恋人への感情などをしっかりと描いていくため、彼女たちに同情し応援したくなる。要は映画の主人公として成立しているのである。
舞台は、1930年代のパリ。新人女優のマドレーヌは、大物映画プロデューサーに声を掛けられ彼の屋敷を訪ねるが、キャスティングと交換条件で肉体関係を要求され逃げ帰る。アパートではルームメイトであり弁護士のポーリーヌが、恋人との仲もうまくいかず落ち込む彼女を慰めるが、その後刑事が部屋を訪ねてきて、映画プロデューサーが殺害されたことを告げる。そして動機があり、アリバイもないマドレーヌが第一容疑者となってしまうのだ。だがそんな窮地の中、ポーリーヌはある計画を思いつく。それは犯行を自供し、貞淑な女性が権威ある男性に力づくで襲われたことにより、正当防衛として殺人を犯したという主張をし、世論を味方につけることで無罪と名声を勝ち取るという型破りな作戦だった。だが弁護士ポーリーヌの脚本と女優マドレーヌの見事な演技でこれが大成功し無罪を勝ち取ると、彼女は”悲劇のヒロイン”として女優として大成功し、ポーリーヌの元にも弁護のオファーが殺到する。だがそんな順風満帆に見えた彼女たちの元に、落ちぶれたサイレント時代の大女優オデットが現れ、本当に殺人を犯したのは自分だと主張してくる。
このイザベル・ユペール演じる、大女優オデットが登場してくると、ストーリーの先が読めなくなり映画は俄然面白くなる。イザベル・ユペールも落ち目の大女優を嬉々として演じており、ヴィランでありながらも憎めない絶妙なバランスで表現していて巧い。彼女の演技モデルは、サイレント時代にスタートして輝きながらも、30年代トーキー時代の到来とともに失墜した「グロリア・スワンソン」なのではないだろうか。グロリア・スワンソンも低迷しながらも、51歳で主演したビリー・ワイルダー監督「サンセット大通り」にて、サイレント時代に活躍し忘れ去られた女優という彼女自身を投影した役が評価され、アカデミー主演女優賞にノミネートされている。これは本作における女優オデットが辿る、ラストの展開にもリンクしてくる。序盤にマドレーヌとポーリーヌが映画に出かけるシーンで、映画館でかかっている「ろくでなし」は1934年にビリー・ワイルダーが監督したデビュー作であり、フランソワ・オゾン監督の巨匠への目くばせを感じる1シーンだった。
映画プロデューサーのセクハラと言えば、悪名高きハーヴェイ・ワインスタインを思い出さざるを得ないが、本作は女性がその逆境を乗り越えて成功していくという意味では、現代的な作品になっていると思う。女性であるがゆえの社会的制約や性的搾取、さらに金銭的にも貧しいふたりの女性たちが法廷で答弁する姿に、聴衆していた女性たちが拍手喝采していたシーンは、30年代のフランスではあり得ないシーンだからこそ、映画的な強いカタルシスのある場面になっていたが、逆にラビュセ判事やその取り巻き、裁判シーンにおける検事などに顕著だが、男性キャラクターたちがこれでもかとばかりに馬鹿に描かれているのも本作の特徴だろう。彼らのことごとく的を外した言動が、本作のコメディ要素になっているのだ。それは体制側の人間だけに限らず、マドレーヌの恋人であるタイヤ会社の富豪の息子にも当てはまる。彼も無職にも関わらず「僕の仕事は君を愛することだ」と豪語し、”政略結婚”という選択肢でしか人生を歩めない男であり、マドレーヌが彼のどこに惹かれているのか分からない。エンドクレジットでは、男性キャラクターのほとんどをブッタ切る爆笑シーンがあったが、あの息子が引き継いだ会社の未来は暗いだろう。また例の検事の結末には、伏線回収の意味もあって特にニヤリとさせられる。
ここからネタバレになるが、本作は完全に女性たちが勝利するハッピーエンドになっているのが面白い。自立した強い女性たち三人が、男たちを手玉に取りながら、世の中をサバイブしていく物語になっているのだ。マドレーヌは”貞淑な女性”で、自らの貞操を守るために殺人を犯したということだったが、ボーイフレンドとのやり取りを見ていると、性的にある程度積極的な女性なのだろうと想像できるし、劇中のポーリーヌの視線や言動から、彼女はマドレーヌに淡い恋心を抱いているのではないかとも想像できる。せっかく若手のキュートな男性記者という、ポーリーヌが幸せになれそうなキャラクターを登場させているのに、彼とは結局何の進展もない。序盤では恋人が欲しいという趣旨のセリフもあるし、結果的にマドレーヌは幸せになるのだから、彼女も彼と結ばれる展開がラストワンカットくらいあっても良いはずだ。フランソワ・オゾンは自身がLGBTQであることをカミングアウトしているが、「ぼくを葬る」「Summer of 85」など過去作品の中でもかなり多く同性愛を扱っている。本作でも直接的な描写はないが、それらが深読みできるくらいのバランスで、ポーリーヌについては演出されていると感じるのだ。女優として成功し、富豪の父親だけに殺人者ではなかった真実を伝えることで結婚も手に入れたマドレーヌ、大金をせしめ女優としてもカムバックしたオデット。そしてその二人に客席から喝采を送るポーリーヌの姿には、こちらも観客席から拍手を贈りたくなる。
映画プロデューサーの死により払うべき不動産のお金を得した建築家が、マドレーヌのファンだとはいえなぜあれほどのサポートをしたのか?は謎だが、彼がマドレーヌに手を出さず「妻を愛している」という言動から、彼は本作でほとんど唯一の善良な男という事なのだろう。このあたりのバランスも男性観客への配慮を感じる。本作はフランソワ・オゾンからのビリー・ワイルダーへのラブレターのような作品だと思う。小粋でウェルメイドなフランス産スクリューボールコメディで、103分という丁度良い上映時間もあって、気負わずに鑑賞できる小品といった感じだろう。脚本の出来と女優が魅力的なので十分に楽しめる一作になっていると思う。
6.5点(10点満点)