「かごの中の瞳」を観た。
劇場で予告編を観た時から気になっていた本作。2016年サメ映画の傑作「ロスト・バケーション」や、ウディ・アレン監督「カフェ・ソサエティ」が素晴らしかった、ブレイク・ライヴリー主演のサスペンススリラーである。監督は2001年「チョコレート」や、2013年ブラッド・ピット主演で大ヒットした「ワールド・ウォーZ」、「007」シリーズの22作目「慰めの報酬」で有名なマーク・フォースター。割とどんなジャンルでも手堅くまとめる職人監督というイメージがあり、没個性的であまり好きな監督ではなかったが、今作ではそれを払拭する様な、芸術性と娯楽性が融合する傑作に仕上がっていた。今回もネタバレありで感想を書きたい。
監督:マーク・フォースター
出演:ブレイク・ライヴリー、ジェイソン・クラーク、ダニー・ヒューストン
日本公開:2018年
あらすじ
ジーナは保険会社に勤める夫のジェームズと、彼の赴任先のタイ・バンコクで幸せな結婚生活を送っていた。子供の頃の交通事故で失明してしまったジーナだが、ジェームズの献身的な支えで、何の不自由もなく暮らしている。そんな二人の悩みと言えば、なかなか子供ができないことぐらいだった。ある日、医師のすすめで角膜移植にチャレンジしたジーナは、片目の視力を取り戻す。喜びに震えるジーナの瞳が捉えたのは、想像していたナイトのように頼もしい素敵な夫ではなく、地味で平凡な中年男の姿だった。心の奥底に眠っていた好奇心や冒険心が目を覚ましたジーナは、髪を染め流行のファッションで着飾り、外の世界へと飛び出していく。一方のジェームズは、徐々に嫉妬と疑念の思いを抱き始めていた。ところが突然、ジーナが再び視力を失い始める。
感想&解説
思春期前に交通事故で失明したジーナは目が見えない為に、生活面では完全に夫のジェームズに依存しながらも幸せな日々を送っていたが、角膜手術によってジーナの視力が回復した事から、二人の生活の歯車がおかしくなっていくという趣旨の作品だ。視力が回復した事により、ジーナはメイクアップし、髪を金髪に染め、愛犬を散歩に連れ出して他の男性と世間話をするようになる。それを内向的で保守的な性格の夫ジェームズは嫉妬し、以前の妻が目の見えなかった頃に戻りたいと思う様になる。依存され必要とされていた自分、妻の事を100パーセント管理していた自分、ジェームズは再びそれを欲するのだが、それは「愛」ではなく「支配」だ。
手術前、子供が出来ない事に落ち込むジーナをジェームズはクラブに誘う。ジーナはトイレに寄るが知らない人達に囲まれてしまい、目が見えない為ジェームズの名前を呼ぶシーンがある。そこでジェームズは名前を呼ばれている事を知りながらも、そのジーナの様子をしばらく見つめているという描写があるが、一人の時の非力さをジーナに感じさせ、その後で助けに入る事で「この人がいないとダメなんだ」という自分への依存度を高める為の行動だが、これは映画の演出として上手い。セリフでは無く作品冒頭から、観客が夫のジェームズに若干の違和感を覚える作りになっているのだ。ジーナの恐怖感を早く解決するよりも、自分の立場を高める事を優先する人物という描写として、これは後半への緩やかな伏線になっている。またこの夫を演じるのが、ジェイソン・クラークというのも良い。美しすぎるブレイク・ライヴリーを必死で繋ぎ止める夫として、地味な上に若干の狂気を感じさせるという意味で、見事なキャスティングである。
一方、ブレイク・ライヴリー演じるジーナは手術後、今まで目が見えない事により抑えていた本来の「奔放さ」を爆発させる。まるで事故で失われた思春期を取り戻そうとするかのようにである。それは女子高生が親の管理から逃れるように、あえて危険な外の世界に踏み出していくのに似ている。二人乗りのボートに一人で乗ると言い張ったり、夫を置いて、姉夫婦と「覗き部屋」に行ったりするのは、その抑えられない好奇心のためだ。そして、このジーナの奔放さの源にあるものは「セックス」への大きな興味である。映画冒頭からジェームズとジーナのセックスシーンから始まるのが特徴的だが、ジーナの目が見えない状態ではジェームズが上になり、彼がリードして最後まで行為は行われるのだが、目が回復した後のセックスシーンではジーナが上になっている。まるで彼女が主導権を得たようにである。だがその時、ジェームズは性的に不能になり未完のまま終わってしまう。ジーナがジェームズを拘束し「目隠しプレイ」をしようとするシーンでも、ジェームズはそれを拒否する。彼にとって、ジーナは「拘束すべき対象」で「拘束される対象」では無い為だ。そして、これをジーナは非常に不満に感じる。もちろんこれは「見えない」という立場を入れ替えた上でのセックスという、ジーナの屈折した欲求の現れでもある訳だが、この性的に解放されないフラストレーションが、次の新たな悲劇を生む伏線となっているのである。
終盤、ジェームズは妻の目薬をすり替えて、再び盲目に戻そうと画策し、ジーナの目が見えなくなって来たところで家に泥棒が入り、愛犬がいなくなるという危険な状況を作る事で、再びジーナの自分への依存度を高めるという作戦を取る。冒頭のクラブの時と同じだ。だが、不審に感じていたジーナは既に病院に行き、目薬の調査をしてもらっていたし、正しい薬を処方してもらっていた。夫の狂気に気付いていたのだ。そして、ジーナの方も犬の散歩の際に公園で出会う男とセックスして、妊娠してしまう。だがジェームズも、一人で病院に行き自分には子供を作る能力がない事を知っていた。この病院にまつわる、二つの対比が二人の心を決定的に引き離してしまう。ラストシーンで、ジーナは観客席にいるジェームズの目を見ながら歌う。「私は見えているのよ」と。それに気付いたジェームズはコンサート会場を後にして、そのまま自動車事故を起こしてしまう。そして、ラストは産まれた赤ちゃんを見ている幸せそうなジーナのカットで終わるのだ。
なんという苦いエンディングなのだろう。だが、映画作品としてはセリフによる説明ではなく、観客に考える余韻を残しつつ、全編に亘って「演出」でストーリーを語る見事な作品だったと思う。男女間でも感想が分かれるかもしれないし、置かれた環境によっても意見の相違が出そうである。R15+という事もあり、作品テーマ的にも性的なシーンが多く含まれるが、これこそ30代以上の大人が観て様々な感慨に耽れる重層的な作品だと言えるだろう。新婚カップルにはとても勧められないが、「ブルーバレンタイン」や「レボリューショナリー・ロード」などに並ぶ、「暗黒夫婦もの」の新たな傑作が生まれたと思う。マーク・フォースター監督の新たな代表作として必見である。