「すずめの戸締まり」を観た。
「君の名は。」「天気の子」で、日本屈指の劇場用アニメーション監督になった新海誠の新作が3年ぶりに公開となった。公式HPには「集大成にして最高傑作」という言葉が並び、劇場ではかなりの拡大規模にて公開になっている話題作だ。音楽は、新海誠作品では3度目のタッグとなるRADWIMPSが担当しており、「カナタハルカ」という楽曲を提供している。日本各地を舞台に、地震の災厄を起こす「扉」を閉める旅に出た少女を描いた長編アニメーションで、声の出演は、「罪の声」などにも出演していた若手女優の原菜乃華や「SixTONES」の松村北斗、深津絵里、染谷将太、神木隆之介など錚々たるメンバーが顔を揃えている。今回もネタバレありで、感想を書いていきたい。
監督:新海誠
声の出演:原菜乃華、松村北斗、深津絵里、染谷将太、伊藤沙莉、花瀬琴音、松本白鸚、神木隆之介、花澤香菜
日本公開:2022年
あらすじ
九州の静かな町で暮らす17歳の少女・鈴芽(すずめ)は、「扉を探してるんだ」という旅の青年・草太に出会う。彼の後を追うすずめが山中の廃墟で見つけたのは、まるで、そこだけが崩壊から取り残されたようにぽつんとたたずむ、古ぼけた扉だった。なにかに引き寄せられるように、すずめが扉に手を伸ばしてしまい謎の石の封印を解いた為に、やがて日本各地で次々に開き始める扉。その向こう側からは災いが訪れてしまうため、草太は開いた扉は閉めなければいけないというが、彼は謎のネコ・ダイジンによって三本脚の子供用の椅子になってしまう。
感想&解説
新海誠監督だから制作できた、極めて作家性の強い一作であり、確かに現時点での彼の総括的な作品だと思う。まず劇場用アニメーションとして、画が動く事のダイナミックさを、100%活かせる設定の面白さは素晴らしい。あえて"動くイス"という、アニメらしいキャラクターを入れて、それが物理法則を越えて動き回るショットを随所に入れることで、エンターテイメント映画としての軽さや楽しさを入れこんでいるのも良い。しかも三本脚というところもミソで移動の時に安定感がないので、この椅子は常にちょこまかと動いているように見え、しかも”寝相が悪い”という設定も入れ込めて、一見ただのイスなのに極めてアニメっぽいキャラクターとして成立している。また扉から出てくる凶々しいミミズの帯や、しゃべるネコ、空を駆ける空想の生き物などの設定は、まるで往年の”ジブリ作品”のようだ。まず、劇場用アニメーションとして子どもが観ても楽しめるような要素をしっかり入れこんで、娯楽映画としての満足度を担保しているのは流石のバランス感だ。
ただ本作では思いのほか、重いテーマが描かれている。それは地震であり震災だ。思い返せば、新海誠は2016年の「君の名は。」から、一貫して震災を描いてきた監督だったと思う。「君の名は。」では、糸守町という架空の町を舞台にしてはいたが、3年前に彗星の破片が隕石となって直撃したことで消滅し、多くの人たちが亡くなっているという設定だった。それを”瀧と三葉”という男女のキャラクターが愛し合い、お互いを信じることによって、災害そのものを回避し、さらにラストで二人が再会するという形で若者たちの愛を描いたのだが、正直この着地は個人的にしっくりこなかった。若者が恋愛し、希望を持って生きていくことはもちろん悪い事ではないのだが、世の中にはやはり”無かったこと”には出来ないことがある事を知っているからだ。現実には亡くなった人は戻ってこないし、離れ離れになってしまったらもう二度と出会えない人もいる。この消滅してしまった町という設定を入れている割に、「君の名は。」の完璧なハッピーエンドには、やや鼻白んでしまったのは事実だ。
そしてそれをさらに発展させたのが、前作「天気の子」だろう。男子高校生の帆高と、「天気を必ず晴れにできる能力」を持った陽菜の二人が主人公なのだが、「天気の巫女」と呼ばれ、能力を使い続けることによって身体が消えてしまうという設定の陽菜に対して、帆高の抱える葛藤があまりに子供じみていた。そもそも”親や学校が息苦しい”という理由だけで、住む場所もお金もないのに東京に逃げてきた経緯からまったく感情移入できないし、どうしても愛する人に会いたいからと都内の線路を走り、自分たちの生活に干渉してほしくないからと警察からは逃亡し、「俺はもう一度、あの人に会いたいんだ」と言っては恩人に銃を向け、そして何よりそれを周りの「理解ある大人たち」がなんだかんだと手助けするという、あまりに甘ったれた子供の話には心底ウンザリしたものだ。帆高が「もう二度と晴れなくたっていい。青空よりも俺は陽菜がいい。天気なんて狂ったままでいいんだ!」という、耳を疑うセリフを吐いた結果、東京は雨が3年間降り水没してしまうのだが、その後にお婆さんが言う「東京のあの辺は、もともと海だったんだよ。だから結局は元に戻っただけさ」というセリフには唖然としたものだ。
要するに、よく新海誠作品に対して評される”セカイ系”の作風と、個人的にはまったく相容れなかったわけである。RADWIMPSの楽曲に乗せて、若者たちの恋愛と並行し”ポップ”に描かれる題材として、水害や震災というテーマはあまりに重すぎるのである。もちろん映画はいろいろなメッセージがあってもいい。殺人鬼がひたすら人を殺すだけの映画も、倫理観が壊れているアンチモラルなカルト映画も、個人的には大好きだ。ただ新海誠作品は単館上映のインディー映画ではなく、全国300館以上の上映館で興行される、日本屈指の大作アニメーション映像作品なのだ。だからこそ”君と僕だけの世界”や”二人だけの幸せ”だけではなく、”正義や正しさ”、”誰かを失う事の痛み”といった王道のカタルシスがもっと描かれても良いと思ったのである。すっかり前置きが長くなってしまったが、そこで今回の「すずめの戸締まり」だ。
おおよそのストーリーは、九州の静かな町で暮らす17歳の女子高校生の鈴芽(すずめ)が、ある日の登校中に廃墟にある扉を探しているという青年である、草太に出会う。その後、草太を追って廃墟である一つの扉を見つけた鈴芽は、地面に不思議な石を見つけそれを抜いてしまう。その後、扉から禍々しいミミズの大群が噴出してしまうが、草太と共にその扉を閉めることに成功する。草太は日本各地で地震を起こす危険のある”扉”を閉める為に旅をしている、「閉じ師」だったのだ。だがその後二人の前に、人間の言葉を話す謎の白いネコ「ダイジン」が現れ、草太は鈴芽が持っていた子供用のイスに姿を変えられてしまう。そして日本各地の災いの扉である「後ろ戸」が開き始め、イスになってしまった身体を元に戻し次の扉を閉めるため、草太は白ネコ「ダイジン」の後を追い、鈴芽も草太と共に日本を縦断する旅に出るのだったという流れだ。
ここからネタバレになるが、本作は大きな枠組みで言えば、”ロードムービー”のような構造なのだが、このダイジンを追って二人が次に行く場所が決まるという流れになっている。そして宮崎から愛媛、神戸、そして東京、宮城と「後ろ戸」を閉めていくことで物語は進んでいくのだが、この各地で出会ったキャラクターを通じて、鈴芽は成長していく。特に愛媛の民宿で働く同い年の少女である千果、神戸までヒッチハイクで連れて行ってくれる、二児の母でありスナックのママであるルミは、今までまったく関係のなかった鈴芽を助けてくれる。そしてその対価として、鈴芽も民宿やスナックで労働することになるのだ。物心ついてからは、恐らくほとんど宮崎から出た事のなかった鈴芽が、様々な土地で他人の優しさに触れ、働くことで恩を返す。風呂を洗い、子供の面倒を見て、スナックの洗い物をするのだ。子育てや地域の連携、シングルマザーなど、ここに描かれていることは今の日本の縮図だ。そして鈴芽が次の土地へ移動するとき、別れを惜しみながら彼女たちは必ず抱き合う。本作において、このシーンはとても重要だ。この映画は助け合い、前を向いて生きる市井の人々を描きつつ、温かい”日本人の善意”を描こうとしているからだ。だからこそ、本作で登場する人物は皆、なんらかの形で鈴芽を助けてくれる。ただそれはただの甘やかしではなく、彼女が必死に行おうしてしている事に共感し、背中を押してくれているためだ。
ここが今までの閉じた”ボーイ・ミーツ・ガール”の世界観とは、圧倒的に違う点だろう。そして”震災”というセンシティブな問題を直接的に扱っているが、そこから全く逃げてないのも見事だ。地域に起こる地震という災害を、”ミミズの大群”というモンスターとして象徴化しているアイデアも素晴らしいし、こういった”アニメ演出”としてのファンタジー性は残しつつも、なるべく寓話性は排して、伝えたいメッセージを明確にしている。映画を観る日本の観客に、「生きることの素晴らしさ」というド直球な表現を投げつけてくるのである。「たとえ今が苦しくても、生きていけばきっと良い事がある」という恥ずかしいくらいに真っ当なメッセージが伝わる、終盤の「鈴芽が4歳のすずめと出会うシーン」には本当に泣かされた。今は母親を亡くし、失意のどん底にあるかもしれないけど、あなたはこれからちゃんと成長して大きくなる、そして素敵な恋だってするのよ、と鈴芽が過去の自分に伝える場面だ。「私は草太さんがいない世界が怖い」というセリフがあるが、鈴芽が草太に抱く恋愛感情も、これから来る素晴らしい未来の一環なのである。
草太へ恋愛感情を持ったのが、いわゆる”一目惚れ”で、あそこまでの行動を起こす動機が弱いという意見もあるようだが、旅を通して二人の絆がしっかりと深まっていく描写は多々あったと思う。むしろ、最初のきっかけは”イケメン”だったかもしれないが、鈴芽が草太に本当に惹かれていくのは、彼がイスに変えられてからだったのではないだろうか。そして本作でもっと好きな場面は、”岩戸環”という叔母さんが自分の心情を吐露するシーンだ。あの時の彼女は「サダイジン」に憑依されていたのかもしれないが、それでも鈴芽の「(過度に干渉してくるのが)重いのよ」という言葉に触発され、環さんの偽らざる本音が思わず出てしまったという場面で、子供を抱えて生きていく事の、特に震災で親を失った子供に対する”育ての親”としての、綺麗ごとだけではない暗い部分にもしっかりと踏み込んだ描写になっていて、ここも前作からの大きな飛躍だと感じる。自分にとって大事な人を犠牲にして多くの他者を救うという、「天気の子」のラストとは真逆のシーンもあり、今回の新海誠監督は明らかに前作までの閉じた作品ではなく、オープンで大衆性をもった映画を作ることに意図的なのだと感じるのだ。
この難しいテーマを扱いながらもストレートなメッセージを入れこみ、エンターテイメント作品として成立させているのには、本当に驚かされる。あの大震災から10年以上が経過し、この強烈なインパクトを持つアニメーション作品が公開されたことには感謝しかない。本作はまさに今、作られるべき作品だったのだろう。車の中で流れる、「荒井由実 ルージュの伝言」「松田聖子 SWEET MEMORIES」「井上陽水 夢の中へ」「河合奈保子 けんかをやめて」といった曲の数々は、70年~80年代におけるジャパニーズポップスの名曲だ。1973年生まれの新海監督にとっては、幼少期に感じた高度成長期~バブル期における、日本がもっとも輝いていた時代への郷愁を感じる曲なのかもしれない。「ルージュの伝言」には、本作に通底する「魔女の宅急便」へのオマージュ要素もあるだろうが、1989年のジブリ作品として日本人に愛され続けている作品への愛情とリスペクトを強く感じる。本作は日本人のクリエイターがアニメ作品を通して、今の日本人に贈るエールであり鎮魂歌なのだろう。繰り返される「いってらっしゃい」「いってきます」という日本語の美しさに改めて気付かされたことも含めて、確実に今観るべき価値のある作品になっている。新海誠監督が本当の意味で、「国民的アニメ監督」になった一作だと言えるかもしれない。
9.0点(10点満点)