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映画「君たちはどう生きるか」ネタバレ考察&解説 本作の主人公は監督本人!そして大叔父とは??まるでジブリと宮崎駿監督の人生をそのまま投影したような作品!

君たちはどう生きるか」を観た。

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国民的アニメーション監督である宮崎駿監督が、2013年の「風立ちぬ」以来、10年ぶりに手がけた長編アニメーション作品。スタジオジブリといえば、「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「火垂るの墓」「耳をすませば」などの不朽の名作から、「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」「崖の上のポニョ」など、日本の映画興行収益を塗り替える作品の数々を送り出してきたスタジオだが、その中でもやはり宮崎駿監督の作品は特別だろう。ベルリン国際映画祭や米アカデミー賞でも高い評価を受け、今や世界的なアニメーション監督として名を馳せている宮崎監督による、待望の新作が遂に公開となった。一時期は長編作品からの引退宣言を表明していたが、その引退宣言を撤回し挑んだ意欲作だ。声の出演は菅田将暉柴咲コウあいみょん木村佳乃木村拓哉竹下景子など豪華キャストになっており、主題歌は米津玄師が担当し、「地球儀」という新曲を披露している。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。

 

監督:宮崎駿
声の出演:山時聡真、菅田将暉柴咲コウあいみょん木村佳乃木村拓哉竹下景子風吹ジュン阿川佐和子大竹しのぶ國村隼小林薫火野正平
日本公開:2023年

 

あらすじ

太平洋戦争中の1944年、牧眞人は、東京を襲った空襲で入院中の母を亡くし、父が経営する戦闘機工場の移転とともに、郊外へ疎開することに。2人を出迎えたのは、母の妹であり、父の再婚相手となったナツコだった。お腹に新しい命が宿っている彼女を、眞人は新しい母親として受け入れることができず、転校先の学校でも孤立してしまう。そんなある日、言葉を話す不思議なアオサギが眞人の前に現れ、屋敷の庭の奥に古びた塔の中に彼を誘っていく。

 

感想&解説

これは、とてつもない難物だと思う。シンプルにすぐに頭で理解できるような”整合性”のあるストーリーではなく、宮崎駿の頭や心の中をそのままさらけ出したような作品で、一度の鑑賞ではとても細部までは理解が追いつかない。鈴木敏夫プロデューサーからの事前情報では”冒険活劇ファンタジー”だと言われていたが、これは完全に「私小説」であり「アート作品」だ。よっていわゆる過去の、明るく楽しいジブリ作品を期待していると肩透かしを喰うことは間違いないだろう。過去作の中でもトップクラスの難解作であり、宮崎駿の原点回帰作などを期待していた自分が恥ずかしいくらいだ。恐らく強烈に賛否両論が出るだろうし、どちらかと言えば「否」の意見が強い作品だと思う。これはいわゆる”起承転結”や”三部構成”、”伏線回収”といった、従来の映画文法でカタルシスを得やすい構造を完全に無視した作りになっているからで、はっきり言ってしまえば、”訳の分からないストーリー”だからだ。次々に脈絡なく起こる映像の洪水に身を任せるしかないのである。

 

 

鑑賞していて思い出したのは、エデンの園や天国と地獄、科学と宗教観、そして生と死が混然一体となってその中を得体の知れない生き物がうごめく、プラド美術館に所蔵されている画家ヒエロニムス・ボスが描いた「快楽の園」という作品だ。この三連祭壇画の両翼を閉じると、天地創造時の地球が現れるということで、エンディングテーマが米津玄師の「地球儀」というのも、微妙なリンクを感じる。そしてファンタジー要素が強いながらも、いわゆるポップで楽しいファンタジー映画ではなく、暗くで死の気配に満ちている。それでも過去のジブリ作品的な演出もあり、とにかく「ごった煮」という表現がピッタリだ。タイトルは、吉野源三郎の著書「君たちはどう生きるか」から引用しているのだが、直接的なストーリー上の影響はないと感じた。ただし劇中でも亡き母親から贈られた「君たちはどう生きるか」を、主人公が泣きながら読むというシーンがあったが、週刊文春CINEMA」の鈴木敏夫プロデューサーのインタビューに書かれていたが、本著は宮崎監督が過去に母親に読んでもらった本らしく、彼にとって相当に思い入れの強い原作なのだろう。それだけ本作の主人公”牧眞人”は、宮崎駿そのものだ。この映画は、宮崎駿版のスピルバーグ監督「フェイブルマンズ」であり、フェデリコ・フェリーニ監督の「8 1/2」なのだと思う。

 

主人公の眞人は太平洋戦争中の1942年、空襲による火事で母親を亡くし、父親はその母の妹ナツコと結婚したことで東京を離れ、疎開先の屋敷を訪れるのだが、序盤の彼はとにかく”怒り”に満ちている。戦争の理不尽さ、母親を亡くした悲しさ、母の妹と結婚して妊娠までさせた父親への不信、これらがこの眞人を負の感情に引っ張っており、ほとんどPTSDのようなトラウマを抱えている。だが新婚である父親と義理母とのセックスシーンには気を遣える程度には大人に成長しており、その微妙な思春期特有のモヤモヤとも相まって、とにかく序盤の彼は常に怒っている。眞人の父親はまるで”この現実世界の代表”のようで、息子が怪我をして帰ってこれば「何が原因だったんだ?」よりも先に「誰にやられたんだ?仕返ししてやる」と息巻き、息子の為に「学校に300円寄付してきた」と伝えてくる。さらに嫁や息子がいなくなっても「工場は止めない」と言い切ってしまう、まさに昔の父親像そのものだ。劇中で、戦闘機のキャノピー(防風窓)が大量に登場するシーンがあったが、宮崎駿の実の父親も「宮崎航空機製作所」という航空機部品製造会社の経営者であったこともあり、この父親は宮崎監督の実の父親がモチーフなのだろう。

 

さらに宮崎駿のお母さんは、監督が幼少の頃9年間のあいだ難病で病床にありすでに亡くなっているのだが、子供の頃に母におんぶをねだったが涙ながらに断れたというエピソードを、過去に出版した本の中で披露していたりする。これは本作の冒頭で病院にいながらも火事で亡くなるという眞人の母親と重なり、この眞人というキャラクターは宮崎駿本人の設定とあまりに重なるのである。そういう意味で本作は監督自身を主人公にしながら、言いたい事を全て入れ込みつつ、過去の自分が達成してきた”娯楽映画作家”としての意地すらも、全てごった煮にした作品になっている。突然可愛いキャラクターの「ワラワラ」を登場させるあたりは、やはり監督独特のバランス感覚なのだろう。だがこのワラワラ自体も、ジブリの作品を描いてきた名もないアニメーターたちを意味しているようで、油断がならない。主人公の眞人は、学校に行かないで済むように自分で頭を石でカチ割り、大流血する。かと思えば自作の弓で”喋るアオサギ”と本気で対決し、”下の世界”を冒険するのだが、とにかく観ている間はまったく先の展開が読めない上に、整合性のない展開に頭は混乱する。もちろん「鏡の国のアリス」などの下敷きはありつつも、本作はハリウッド映画のように計算された構成やカタルシスとは無縁の、究極の自主制作映画なのである。

 

 

 

ここからネタバレになるが、簡単に本作を要約すれば、喋るアオサギに誘われた主人公が、突然いなくなった義理の母親ナツコを探しに洋館の中にある、「下の世界」という異世界に行くと、死んだ母親の生まれ変わりの女性と過去に消失した大叔父と出会い、その冒険から帰ってくる話だ。そしてこの”喋るアオサギ”はプロデューサーの鈴木敏夫であり、彼の登場によって迷い込んだこの「下の世界」とは、宮崎監督が今まで作ってきたアニメーションという”作品世界”なのだと感じる。だからこそ、この映画の端々には、「ハウル」があり「もののけ姫」があり「ラピュタ」があり、「ポニョ」がある。各シーンに強烈な過去ジブリ作品の既視感に溢れているのは、その為だろう。アオサギ鈴木敏夫のクチバシに空いた穴を埋めるため、いろいろと文句を言われながらも、必死に何度も調整しながら木を削っているのは、クリエイターである監督の姿そのものだ。そして一緒に冒険についてくる”キリコ”というおばあちゃんは、過去にジブリ色彩設計を担当しており、宮崎監督とは戦友だった保田道世さんなのだろう。さらにナツコは、監督が影響を受けてきた女性陣の集合体ということも考えられる。そんな実の母親を含めた、監督の人生を彩ってきた人たちとの最後の冒険が、この「君たちはどう生きるか」だった気がする。劇中でナツコは妊娠しており、新しい命を宿している。そしてそんなナツコを遂に母親として呼ぶシーンがあるが、宮崎駿の女性たちへの敬意と尊敬を感じる場面だったと思う。

 

ではこのアニメーションを表現した「下の世界」のバランスを積み木によって保っている、「本を読み過ぎて頭がおかしくなった大叔父」とは誰かと言えば、やはりそれは”高畑勲”なのだろう。そして有象無象に転がる”墓と同じ石”とは、この世界に生み出されてきたアニメーション作品のアイデアであり、無垢で悪意のない13個の石とは、宮崎駿高畑勲が過去に影響を受けてきた「白蛇伝」や「やぶにらみの暴君」、「雪の女王」といった彼らが考える”本当に未来に継ぐべき作品のアイデア”を指している気がする。宮崎監督の過去作品を指すという考察もあるようだが、子供たちに向けて「ジブリ映画のDVDを観るよりも、外で遊んでほしい」と発言していた監督が、自作の過去作品を自画自賛するとはどうしても思えないのである。さらに無垢で悪意がないというのは、現代のアニメーション作品のようにタイアップや性暴力にまみれていない作品という意味も含まれるのではないだろうか。「自分の跡を継いで、良い世界を作ってほしい」と大叔父は眞人に告げるが、自分は悪意で頭に傷を負った人間だからその資格はないと言うシーンがある。これは先人たちの意志は、もっと若くて違う人間が継いでくれるはずだという宮崎駿なりの希望を込めたシーンであると同時に、この後の自分の人生は創作を離れて”友人”を作りながら、「上の世界」という現実を生きるのだという宣言にも感じた。そして、ここからはエンターテインメント作品として、主人公と助けにいったナツコが元の世界に戻り父親と再会するという、広げた風呂敷を畳むようなエンディングシーンとなる。ラストカットでは新しい命が生まれたことが描かれ、眞人が自分の部屋のドアを出たところで、恐ろしくシンプルなエンドクレジットが始まるのだが、このエンディングにはあまり監督の意図やメッセージを感じないのは気のせいだろうか。「もう言いたいことは全て作品の中で言った」という、潔さすら感じるエンディングであったと思う。

 

ここに書いたことは、あくまで個人の見解だし、恐らく観た人の数だけ解釈があって良い作品だと思う。もう一回観るともしかすると、また違う解釈が生まれるかもしれない。だがひとつだけ言えることは、宮崎駿監督は本作でいったん全てを出し切ったのではないだろうか。全てのカット全てのシーンにおいて、監督の叫びと感情が迸っており、こんな作品はもう二度とは作れないだろうからだ。単品の映画作品としても、日本中が期待していたジブリの宮崎作品としても、あまりに歪でメチャクチャな作品だと思うが、老齢の天才アニメーション監督の頭の中が覗けるというだけで、十分に観る価値はある作品だと思う。主人公の眞人が、自分で傷つけた頭から流れる出血の多さは、孤高のクリエイターとして傷ついてきた、そして作品の為に周りの人間を傷つけてきた傷の深さを表現していると感じる。もう宮崎駿監督は、十分にアニメ監督としての役割を全うしただろう。今は「本当にお疲れ様でした」と言いたい気持ちである。

 

 

7.5点(10点満点)