「イノセンツ」を観た。
第74回カンヌ国際映画祭のある視点部門に正式出品され、2022年のノルウェー映画祭「アマンダ賞」では、監督/撮影/音響/編集の4部門を受賞。世界の映画祭では16もの映画賞を受賞した、ノルウェー製のサイキックスリラー。メガホンを取ったのは「わたしは最悪。」でアカデミー脚本賞にノミネートされた、エスキル・フォクト。「テルマ」「わたしは最悪。」などのヨアキム・トリアー監督と共同脚本を務めてきた、エスキル・フォクトの監督2作目となる。監督は大友克洋の漫画「童夢」からインスピレーションを受けたと公言しているが、確かにかなり「童夢」を意識した作品となっている。レーティングは「PG12」。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。
監督:エスキル・フォクト
出演:ラーケル・レノーラ・フレットゥム、アルバ・ブリンスモ・ラームスタ、ミナ・ヤスミン・ブレムセット・アシェイム
日本公開:2023年
あらすじ
ノルウェー郊外の住宅団地。夏休みに友人同士になった4人の子どもたちが、親たちの目の届かないところで隠れた力に目覚める。子どもたちは近所の庭や遊び場で新しい力を試すが、やがてその無邪気な遊びが影を落とし、奇妙なことが起こりはじめる。
感想&解説
北欧映画には独特の雰囲気があって、個人的に好みの作品が多い。スウェーデン映画だと、トーマス・アルフレッドソン監督「ぼくのエリ 200歳の少女」は傑作だったし、デンマークからもダーグル・カウリ監督「好きにならずにいられない」や、トマス・ヴィンターベア監督がマッツ・ミケルセンと組んだ「偽りなき者」「アナザーラウンド」、さらにラース・フォン・トリアー監督「メランコリア」「ニンフォマニアック」など、ハリウッド映画では出せない魅力があると思う。(「ぼくのエリ 200歳の少女」はマット・リーヴス監督によってリメイクされたが)その中でも2022年に日本公開された、ヨアヒム・トリアー監督の「わたしは最悪。」は素晴らしい作品だったが、本作はその「わたしは最悪。」でヨアヒム・トリアー監督と共に脚本を担当した、エスキル・フォクトの長編監督2作目である。ちなみに監督デビュー作の「ブラインド 視線のエロス」も副題でかなり損している気がするが、他にはない作風が楽しめる面白い作品だったのでオススメしたい。
この「イノセンツ」を語る上で、ヨアヒム・トリアー監督/エスキル・フォクト脚本の2018年日本公開作品「テルマ」にも触れておきたい。同じクリエイターが手掛けた、少女の「超能力」をテーマにした作品ということで大きな共通点があるし、さらにヨアヒム・トリアー監督自身のインタビューでも”大のジャパニーズアニメファン”を公言しており、「テルマ」は大友克洋の「AKIRA」から影響を受けたと語っているからだ。そして本作「イノセンツ」は、エスキル・フォクト監督がおなじ大友克洋「童夢」からインスピレーションを受けたとインタビューで答えており、ラストシーンの団地でのバトルシーンなどはそのままシーンが表現されていて、確かに大きな影響を感じる。両作品とも、日本のクリエイター大友克洋から影響されて生まれた作品なのである。「テルマ」が抑圧されてきた少女が、両親からの畏怖の視線や過去の後悔、同性への恋愛感情の目覚めなどから超能力を発動してしまい、”全能性”を手に入れるという「AKIRA」とキリスト教の宗教観が混ざったような物語だったのに対して、「イノセンツ」は「童夢」をベースにしながらも、より”子供の残虐さ”にフォーカスしたような作品になっていると思う。
子供たちが超能力を手に入れて暴走していくという映画だと、ジョシュ・トランク監督の2013年日本公開「クロニクル」という作品があったが、父親から虐待を受けていた少年が一番強い超能力に目覚めて、自らを他の人間よりも高等な「頂点捕食者」だと称し、その能力を乱用していくというストーリーで類似点も多い。また個人的には「イノセンツ」を観ていて、ジョン・カーペンター監督の1995年「光る眼」という作品を思い出した。カリフォルニアの小さな町である日、町中の人間が一気に気を失い6時間後に目を覚ますと、町の女性全員が妊娠していたという奇妙な事件が起こり、生まれた子どもたちは不気味な光る眼で大人たちの精神を操り、大人たちを容赦なく殺していくというストーリーだ。特に「イノセンツ」では、ベンという少年が母親の脚に鍋の熱湯をかけるシーンがあったが、「光る眼」でも邪悪な能力を持つ娘によって、熱湯の入った鍋に母親の腕を突っ込ませるという描写があり、共通点を感じる。このような邪悪な子供が登場する作品は、マービン・ルロイ監督の1957年公開「悪い種子」というマスターピースがあるが、昔から映画で描かれてきたテーマだと言える。
映画の冒頭、”謎の声”と共に車窓の外をぼんやり見ている少女イーダが映し出される。カメラが引くと彼女の隣には自閉症を患い、誰ともコミュニケーションが取れないイーダの姉アナが映り、冒頭の謎の声はこのアナの声だった事が解る。イーダたち家族は団地に引っ越す最中だったのだ。イーダは両親の目を盗み、隣に座るアナの太ももをつねるが、アナは痛がる様子はなく宙を見ている。この冒頭の描写からまず非常に上手い。イーダが姉のアナに対して抱いている感情や日々の行動、アナの状態などがセリフではなく把握できるからだ。その後、イーダはサイキック能力を持ったベン少年と出会い、同じく団地に住むアイシャという少女が加わることで、この4人の子供たちが物語の中心になっていく。ちなみにアイシャの皮膚が所どころ白く色が抜けていたのは”白斑”といい、色素の素『メラニン』を生成するメラノサイトという細胞が機能停止することで起こる症状だ。原因はハッキリしておらず、歴史的には差別の対象にもなったらしい。
序盤しばらくは、この子たちの置かれている家庭環境やイタズラ(というには度が過ぎているが)の数々が描写されていく。冒頭の姉の足をつねる行為やミミズを殺す、上の階から唾を垂らすなどは生易しく、イーダが姉の靴にガラスの破片を入れるシーンには背筋が寒くなった。彼女は子供ながら、その行動がどういう結果を生むのか?を理解しつつガラスを入れているからだ。アナは痛がらないが怪我をすれば血が出るし、傷跡も残るだろう。そしてもうひとつの残虐シーンは、映画を観た人なら絶対に忘れられない、あの”猫殺し”の場面だ。仲良くなったベンとイーダは、野良猫を団地の高い所から落とし、脚を折る。その後ベンは猫の頭を踏みつけて殺してしまうのだ。もちろんフォーカスは合っていないのでハッキリとは映らないが、ベンが足の力をかけて踏みつぶすシーンを観客に解るように撮っているのは、意図的な構図だろう。これらの場面から作り手は観客に対して、”子供の残虐性”をこれでもかと植え付けてくるのである。逆に本作において、大人たちはかなりまともに見える。もちろんベンは母親との関係がうまくいっておらずネグレクト気味なのだろうが、アンディ・ムスキエティ監督の「IT/イット」のような直接的な子供への暴力描写はないし、アナ&イーダ姉妹の両親やアイシャの母親も子どもたちを深く愛していた。これによって親による劣悪な家庭環境のせいではなく、子供たちがそもそも持っている邪悪さを際立たせているのだと思う。
特に本作のベン少年はヴィランとして、素晴らしい存在感を放っている。ここからネタバレになるが、先ほどの猫殺しを筆頭に、サッカーをしている少年の足をサイコキネシスの力で折ったり、いじめられた上級生を他人に襲わせて殺したりと、母親を殺してからの彼は歯止めが効かない。だが時折そんな自分に恐怖を覚えて混乱したり、母親を求めたりする。要するに、彼はまだ本来の意味で”子供”なのである。自分の行動に責任が取れず、命の重さや価値を知らない。本作はその子供が持っている”無邪気な残虐性”を前半でしっかりと描きながら、そんな彼らが自分の手に余る”大きな力”を持つとどうなってしまうのか?を描いた、恐ろしいホラー映画なのである。だからこそ、この物語には大人の力や知識はほとんど介入できず、意味を成さない。それどころか、大人はベンにとって自由にコントロールできてしまう対象だからだ。最後まで大人たちの知らないところで行われる、子供同士の闘いを描くのである。そして唯一能力のなかったイーダが、ベンを殺すために歩道橋から突き落とすシーンに顕著だったが、終盤のベンはもはや人智を越えた存在になっており、ただの人間では殺せない存在になっている。あの高さから子供が落ちて無傷であるはずがないし、下が土だったことも不自然だ。彼は人間とは別の存在になっていたのだろう。
ラストの団地内で行われる、超能力バトルはとにかく地味の一言に尽きる。団地の子供たちにも加勢してもらいながら、イーダとアナはベンと対峙するのだが、今風の映画のように派手なVFXが使われることもなく、画面は静かなまま超能力バトルが行われる。イーダもギプスを壊すシーンがあったので能力に目覚めたということだろうが、こういう戦闘シーンの描き方もあるのかと感心してしまった。カット割りとBGMと構図という、映画の基本的な演出力の勝利だろう。見せ方しだいでは、十分に見ごたえのある超能力バトルが描けるのである。そしてラストシーンでは、イーダは姉アナとも絆が生まれ、母親の胸に飛び込んでいくという爽やかな成長物語として幕を閉じる。本作の肝である子供たちの演技も全員素晴らしく、音楽の力も相まって不穏でダークでありながら、忘れがたい佳作になっていた。ハリウッド的なホラーやスリラーに飽きた方には、特にオススメしたい北欧スリラーホラー作であった。これからもヨアヒム・トリアー&エスキル・フォクトの作品には、期待するしかない。
7.5点(10点満点)