「アステロイド・シティ」を観た。
「天才マックスの世界」「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」「ファンタスティック Mr. Fox」「グランド・ブダペスト・ホテル」など、独特の世界観で映画を作り続けているウェス・アンダーソン監督が、砂漠の街に宇宙人が到来したことから巻き起こる騒動を描いたコメディ。従来どおりウェス・アンダーソンが脚本も担当している。2023年のカンヌ国際映画祭のプレミア上映では、6分間のスタンディング・オベーションで讃えられ、アメリカの先行公開でも高い興行成績を残したらしい。キャストにはジェイソン・シュワルツマン、エドワード・ノートン、エイドリアン・ブロディ、ティルダ・スウィントンら監督作の常連に加え、スカーレット・ヨハンソン、トム・ハンクス、マーゴット・ロビー、スティーブ・カレルらの大物俳優も参加し、過去一番の豪華キャストとなっている。2023年第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品作。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。
監督:ウェス・アンダーソン
出演:ジェイソン・シュワルツマン、エドワード・ノートン、スカーレット・ヨハンソン、トム・ハンクス、エイドリアン・ブロディ
日本公開:2023年
あらすじ
1955年、アメリカ南西部の砂漠の街アステロイド・シティ。隕石が落下して出来た巨大なクレーターが観光名所となっているこの街に、科学賞を受賞した5人の少年少女とその家族が招待される。子どもたちに母親が亡くなったことを言い出せない父親、映画スターのシングルマザーなど、参加者たちがそれぞれの思いを抱える中で授賞式が始まるが、突如として宇宙人が現れ人々は大混乱に陥ってしまう。街は封鎖され、軍が宇宙人到来の事実を隠蔽する中、子どもたちは外部へ情報を伝えようとする。果たしてアステロイド・シティと、閉じ込められた人々の運命は?
感想&解説
ウェス・アンダーソン監督らしいとしか形容できない、不思議な作品だ。核となるストーリーはほとんど無いと言っても良く、パンフレットに記載があるキャラクターだけでも、20名以上という多くの人物たちが断片的に各シーンを紡いでいく。強い物語的なカタルシスを期待して鑑賞すると、拍子抜けしてしまうだろう。エンターテインメント作品というよりは、前作「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」にも感じた、アート作品の傾向が強い気がする。ウェス・アンダーソン作品の中でも、「ファンタスティック Mr.FOX」「ムーンライズ・キングダム」「グランド・ブダペスト・ホテル」「犬ヶ島」あたりは、娯楽とアートのバランスが絶妙だったのだが、コロナ禍を経て、監督は新しいフェーズに入ったのかもしれない。当然のことながら本作でも、彼は監督/脚本と製作を担当しており完全にウェス・アンダーソンの作品に仕上がっている。
どうやら、この映画は1998年におけるウェス・アンダーソンの出世作「天才マックスの世界」に主演していた、ジェイソン・シュワルツマンに”これまで演じた事のないような良い役を与えてあげたい”という、動機から生まれているらしい。ジェイソン・シュワルツマンは「ダージリン急行」「グランド・ブダペスト・ホテル」などの監督作に多く出演しているが、実はフランシス・フォード・コッポラを伯父に持ち、ソフィア・コッポラやニコラス・ケイジとも親戚関係にあるという”映画家系”の出自で、ソフィア・コッポラ監督の「マリー・アントワネット」にも出演している俳優だ。そんな彼のために、ウェス・アンダーソンがフランシス・フォード・コッポラの息子であるロマン・コッポラと一緒に脚本を書き、ブロードウェイの黄金期とも言える1950年代の劇場業界で、”劇そのもの”を作っていく様子を描く映画にしようという発想で膨らませた脚本らしい。ここからも分かるように、本作は映画というフォーマットを借りながら、物語ではなく”俳優たち”そのものをテーマにした作品なのだと思う。
この「アステロイド・シティ」とは、劇中に登場する戯曲とそれを上演する舞台のタイトルだ。そして1950年代のテレビ画面風なモノクロのスタンダード画面で表現されるのは、舞台「アステロイド・シティ」のメイキングドキュメンタリー番組の映像という、”入れ子構造”を持っており、若干ややこしい。この舞台裏を描いていくテレビ番組のモノクロパートと、上演された舞台の内容が展開されるカラーパートが交互に表示されるのである。この舞台劇パートの画面サイズはシネマスコープで、現実離れしたカラーリングで彩られたセットの”書割り感”が、とてもウェス・アンダーソン作品らしく奇妙なのだが、同時に広々としたロケ撮影のようにも感じられ、”映画”とのハイブリットの様な表現になっている。この入れ子構造から浮かび上がるのは「虚構と現実」、「フィクションとリアル」の二重構造プラス、更にそれを観ている観客視点という三重の構造だ。
我々が知っている実在の俳優、その俳優が俳優役として登場するモノクロの世界、さらにその俳優が演劇の中で演じるキャラクターという構造を持ちながら、更にスカーレット・ヨハンソン演じるミッジは明らかにマリリン・モンローを模していて、この”劇中劇”を観ながら、あえて”現実世界”を思い出させるような作りになっている。決して、観客をこのカラフルでポップなフィクションの世界だけに浸らせてはくれないのだ。そして、この各世界を繋いでいるのは”俳優”たちだ。映画の終盤、「アステロイド・シティ」の作者である、エドワード・ノートン演じる劇作家を迎えた、ウィレム・デフォー演じる演技指導者カイテルのモノクロ画面によるセミナーシーン。俳優たちが口にする、「起きたいなら眠れ」という”眠れ”とは、映画やドラマの物語という虚構を意味していて、「現実社会を生きる=起きる」ならフィクションの世界も必要だという、この映画自体の構造を使ったメッセージなのだろう。また俳優が役柄そのものの感情を追体験することで演技していることを忘れて没入するという、マーロン・ブランドやマリリン・モンローらが取り入れた、50年代当時のアクターズ・スタジオにおける「メソッド演技」とのダブルミ―ニングになっているのかもしれない。
さらに終盤、ジェイソン・シュワルツマン演じるオギーが、亡くなった妻役と外の階段で向かい合って会話を交わすシーンがある。劇中劇では”尺の都合でカットされた”というシーンが、この映画版「アステロイド・シティ」ではもっとも感動的なシーンになっているというのも、この二重構造だからこそだ。しかもこの女性を演じているのがマーゴット・ロビーという事自体で、ウェス・アンダーソン監督がこのシーンをどれほど重要視しているかが理解できる。また本作では通低音のように”喪失”が描かれているが、オギーは4人の子供たちの母であり妻を亡くして傷心しているし、モノクロのパートの中で“エドワード・ノートン”演じるコンラッドと、劇中でオギーを演じている役者ジョーンズ・ホール(ジェイソン・シュワルツマンが演じている)がキスをする場面があるが、コンラッドはジョーンズ・ホールとの秘めた恋愛を、劇の中では女性ミッジとの関係に置き換えているのだと思う。1950年代における同性愛者は、それだけで処罰される対象とされていたからだ。さらにコンラッドは自動車事故で亡くなったことが語られ、ここでも愛の喪失が描かれるのである。だが劇中のオギーの息子ウッドロウとミッジの娘ダイナとの”若者の恋”は成就することで、爽やかな余韻を残しているのは上手いバランスだったと思う。
またオーギー役の俳優ジョーンズ・ホールが、「この劇が理解できない」とエイドリアン・ブロディ演じる演出家に訴えるシーンがあるが、これはこの映画を観ている観客の気持ちの代弁のようなセリフだ。砂漠の街アステロイド・シティを舞台に、科学賞を受賞した5人の天才少年少女とその家族が招待されるが、その授賞式の最中に突如として宇宙人が現れ、街のシンボルである隕石を盗まれてしまう。その後、軍によって街は封鎖され、宇宙人到来の事実を隠蔽するのだが、不満を溜めた市民たちによって反乱に遭うという、このストーリー自体には特に”意味がない”からだ。ジェフ・ゴールドブラムが演じていた(らしい)エイリアンも、劇中で「メタファー」だと語られるが、この言葉自体もミスリードなのだと感じる。砂漠の街で起こるドタバタ劇ではなく、この劇を演じている役者と作り手の人生が描かれる短い”モノクロパート”こそが、「アステロイド・シティ」という作品で、本当に監督が描きたかった部分なのだろう。この”入れ子構造”を採用することで、徹底的に俳優の”現実と虚構”を描いた作品なのである。
監督はインタビューで「今回の撮影を通じて、僕は自分が持つ役者への愛を再確認したように思う。僕は自分の作品を見るのがあまり好きではないのだけれど、これをキャストと一緒に見ることができたのは良かった。役者がなぜ芝居を愛するのか、監督がなぜ作品を作りたがるのか、その理由がわかったような気がするから。」と語っている。この言葉が、本作のテーマを解く上で大きなヒントになる気がする。とはいえ、この映画が「面白いか?」と聞かれると、返答に困るのも事実だ。それは難解ということではなく、ストーリーを語ることを目指していない作品だからである。この映画の構造自体でテーマを表現しようとする作品なので、(自分もそうだったが)鑑賞直後は「何を伝えたい映画なのだろう?」と悩んでしまう方も多いと思う。そういう意味では、ストレートな娯楽映画ではなくアート映画のような側面が強いため、ウェス・アンダーソン過去作のファンでも確実に好き嫌いが分かれる、実験的な作品だと言えるだろう。
5.0点(10点満点)