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映画「哀れなるものたち」ネタバレ考察&解説 これほど執拗に性描写を入れる意味とは?タイトルの「哀れなるものたち」とは誰を指しているのか?

映画「哀れなるものたち」を観た。

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「ロブスター」「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」「女王陛下のお気に入り」など、新しい作品が公開される度に世界中の映画ファンと評論家を魅了している、ギリシャアテネ出身のヨルゴス・ランティモス監督の新作が遂に日本公開となった。「女王陛下のお気に入り」にも出演していたエマ・ストーンと再びタッグを組み、スコットランドの作家による同名ゴシック小説を映画化している。他のキャスト陣は、「アベンジャーズ」「スポットライト 世紀のスクープ」のマーク・ラファロ、「プラトーン」「7月4日に生まれて」のウィレム・デフォー、「ファースト・マン」のクリストファー・アボット、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」のマーガレット・クアリーなど。レイティングは「R18+」。本作はすでに世界中で高い評価を得ており、第80回ベネチア国際映画祭コンペティション部門では最高賞の「金獅子賞」を受賞した他、第96回アカデミー賞では「作品賞」「監督賞」「主演女優賞」「助演男優賞」「脚色賞」など、計11部門にノミネートされている。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。

 

監督:ヨルゴス・ランティモス
出演:エマ・ストーンマーク・ラファロウィレム・デフォー、クリストファー・アボット、マーガレット・クアリー
日本公開:2024年

 

あらすじ

不幸な若い女性ベラは自ら命を絶つが、風変わりな天才外科医ゴッドウィン・バクスターによって自らの胎児の脳を移植され、奇跡的に蘇生する。「世界を自分の目で見たい」という強い欲望にかられた彼女は、放蕩者の弁護士ダンカンに誘われて大陸横断の旅に出る。大人の体を持ちながら新生児の目線で世界を見つめるベラは時代の偏見から解放され、平等や自由を知り、驚くべき成長を遂げていく。

 

 

感想&解説

ヨルゴス・ランティモス監督の作品は、初の英語作品だった2016年公開の「ロブスター」から気になりだし、その後の「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」「女王陛下のお気に入り」は劇場で鑑賞している上にブルーレイで何度も観直しているし、その前の「籠の中の乙女」も配信でチェックしており、個人的にこのギリシャ出身の鬼才監督は常に気になる存在だった。特に父親が子供たちを外の世界から一切遮断し育てているが、子供たちの好奇心によってそれが壊れていくという流れや、性的な要素が強い点など、本作と2012年日本公開の「籠の中の乙女」では共通点が多い。ヨルゴス・ランティモスは、ストーリーのロジックや整合性で納得させられるというより、ある変則的なシチュエーションの中に登場人物を放り込み、その中で感じる葛藤や軋轢を描いていくスタイルの監督だと思う。観ていて、こちらの精神をキリキリと締め付けてくるような作品群なのだ。

そして本作「哀れなるものたち」では、”女性の成長とそれに振り回される男たち”を描いており、過去作よりもよりハッキリとしたメッセージ性を感じるのが特徴だ。自殺した女性の脳を胎児のそれと入れ替えたことにより、子供のような言動を繰り返すエマ・ストーン演じるベラ。冒頭の彼女は明らかに幼児のようであり、ウィレム・デフォーが演じる天才外科医ゴッドウィン・バクスターにとっては幼い我が子のような存在だ。外科医ゴッドウィンの家の中には実験用の死体が転がっているし、生体実験された首と身体が違うという動物たちがいるため、ベラには倫理観や死への畏敬がない。そして欲望に忠実で、子供のように癇癪を起すのだ。そんな彼女は科学者ゴッドウィンを”ゴッド(神)”と呼び慕っているのだが、科学者によって脳を入れ替えられて死体が復活するという話は、メアリー・シェリーの小説「フランケンシュタイン」が下敷きだろう。ベラにとってゴッドウィンは父であり、同時に自分を創造した”神”なのである。

 

ここからネタバレになるが、だからこそゴッドウィンは、ベラを屋敷の中に閉じ込めていつまでの自分の手の中に置いておこうとする。だが優しきマックス・マッキャンドレスとの出会いや彼女自身の成長に伴い、外の世界に興味が湧いていく。そんな彼女に訪れる最初の大きな転機が、”性への目覚め”だ。ふとした事からマスターベーションの喜びを知ってしまったベラは、ここから性的な欲求と知的好奇心に歯止めが効かなくなり、遂にはマーク・ラファロ演じる弁護士ダンカンの誘いに乗って世界への冒険旅行に出かけてしまうのだが、本作ではとにかくセックスの描写が多数登場する。これは子供から大人への成長、自立した大人の女性が行う自由の象徴としてのセックス、そして男からの搾取の対象としての行為と、さまざまな意味合いを含んでいるのだが、そのすべてをこれらの”セックスシーン”に託しているからだ。特に後半には娼館でのセックスワークの場面もあるが、それも本作では否定的な描き方をしていない。素直なベラは「なぜ女がいつも選ばれる側なのか?女が選んでも良いんじゃない??」という発言をしたり、お客との会話やジョークで雰囲気を和ませることで、自分のメンタルと身体を守っているというシーンがあったが、ベラはセックスワークを通しても成長していることを描いている。「私の身体は私のものだ」と気付き、それを使って人生を進んでいくのも”彼女の自由”だからだ。だからこそ本作にとって、セクシャリティは絶対に切り離せないテーマなのである。

 

 

そして女性の成長を最も象徴しているキャラクターは、船の中で出会う老婦人のマーサだろう。嫉妬した弁護士ダンカンによって船の中に軟禁されてしまったベラだったが、そこで彼女はマーサと同伴者の黒人男性ハリーと出会う。そこでの彼女たちとの会話と読書によって、彼女はもう一段階成長を遂げる事になる。今までセックスや食事といった即物的な快楽に身を委ねていたベラだったが、彼らとの会話を経ることで”詩的な表現”をするようになり、本を貪るように読むようになる。そこにダンカンが現れて「近頃、本を読んでばかりで、愛らしい喋り方が失われている」と言い、彼女に拒否されたことにより、なんと本を海に投げ入れてしまうシーンには、明らかにベラとダンカンの知性レベルが逆転してしまっている事が現れている。ダンカンのいう”愛らしい喋り方”というのは、男の自分が優位に立てる未熟な女性のそれを指していると思うが、ベラはこの時点でダンカンを凌駕してしまっている。そして本を捨てられてしまったベラに、すぐさま次の本を渡すのが老婦人マーサだ。さらにハリーは、この世界の残酷さをベラに教える。彼女たちとの出会いによってベラは一層成長していき、結果的にダンカンはこの後捨てられることになるが、それも必然だろう。

 

成長していくベラに対して、逆に本作の男性たちの多くはすぐにベラを束縛し、嫉妬し自由を奪う存在だと描かれる。マックス・マッキャンドレスも愛するがゆえに最初はベラが旅に出ることを阻止していたし、弁護士ダンカンはベラへの嫉妬によって自我が崩壊していく。ベラは良くも悪くも既存の倫理観などは皆無なので、誰とでも性的な行動をしてしまう。よって周りの男たちは振り回されてしまうのだ。ここにエマ・ストーンがキャスティングされた理由があるのだろう。本作の彼女はほとんどノーメイクで特に序盤は子供のような言動を繰り返す。だが男たちはそんな彼女に惹かれていってしまうのだ。そこに説得力を持たせるのは並みの女優では難しいだろう。ハリウッドのトップ女優とは思えないくらいの大胆な脱ぎっぷりにも驚かされたが、本作はエマ・ストーンじゃなければ成立しないくらいの卓越した演技を見せていたと思う。中盤のダンカンとベラのダンスシーンにおける、ダンカンは必死でベラをエスコートしようとするのだが、彼をまったく相手にしていないような彼女の奇妙なダンスの場面は特に印象深い。

 

そしてもうひとりの悪い男が、元旦那だと名乗り登場する、アルフィー・ブレシントン将軍だ。彼こそがベラが自殺した元凶であり、生粋のサディストであることが描かれる。使用人たちにも簡単に銃を抜き威圧する彼は、男性における家父長制の権化であり、彼が事あるごとに懐から出す銃はまるで”男性器の象徴”だ。そんなアルフィー・ブレシントン将軍は、戻ってきたベラを自分の屋敷に監禁し、クリトリスを切り取ろうとする男であると描かれる。女性が性的な快楽を得ることや自由に行動することを許さない、この男の存在がベラを自殺に追い込んだのである。そんなアルフレッド将軍の足をベラは撃ち抜き、遂にはヤギの脳と入れ替えてしまうというオチにはさすがに賛否両論ありそうだが、今まで迫害されてきた女性の立場からすれば、これくらいの仕打ちは当然という事だろう。ゴッドウィン・バクスター亡きあと、彼の意志を継いだベラが外科医として試験を受けようと、本を読んでいるシーンで本作は終わる。子供のような存在のベラが世界を冒険することにより、自分のアイデンティティと大切な人たちの存在を知り最後は元の屋敷に戻ってくるという、エキセントリックな作品に見えて、実は古典的な骨子を持つストーリーだった訳である。

 

本作の時代設定はあえて明確にされておらず、まずで現実感の無い空の色や建物が登場する。さらに前半では広角レンズを使って、あえて歪んだ世界を見せてベラの”精神の不安定さ”を表現したり、モノクロとカラーの場面を入れ込んだりと映画的な手法で画面が構成されている。非常に”寓話的”なのだ。また外科医ゴッドウィン・バクスターが時折、”口から出す泡”にはなんの説明もなく、あえてファンタジーと現実の境界を曖昧にしているのも、本作の特徴だろう。タイトルの「哀れなるものたち」とは、もちろん本作で描かれた、力で女性を支配しようとした男性たちを指していると思う。だがもうひとつは、ラストシーンにおける人間の脳を動物と入れ替えてしまうという、マッドサイエンティストとしての資質を持ってしまったベラ自身も指しているのだろう。この場面が特殊な力を持った者への警告だと感じるのは、ヨルゴス・ランティモス監督の作品に安直なハッピーエンドはあり得ないからだ。とにかく凄まじい映像作品としての完成度とメッセージ性で、単純に面白い映画とは言えないが、2024年を代表する一本にはなると思う本作。そして恐らく、本年度のアカデミー賞「主演女優賞」はエマ・ストーンで決まりだろう。

 

 

7.5点(10点満点)