映画「12日の殺人」を観た。
2019年の「悪なき殺人」で世界中の評価を高めた、フランスのドミニク・モル監督にヒューマンサスペンス。ポーリーヌ・ゲナによる2020年のノンフィクションをもとに、ドミニク・モル監督とジル・マルシャンが共同で脚本を手がけ、当時21歳の女性が生きたまま焼かれたという凄惨な殺人事件を描いている。2023年の第48回セザール賞では、「作品賞/監督賞/助演男優賞/有望若手男優賞/脚色賞/音響賞」の最多6冠に輝いた。本作は”未解決事件”と明言されているとおり事件の真相を追う物語ではなく、その闇に飲み込まれていく刑事を描いた作品だ。出演は「恋する遊園地」「悪なき殺人」のバスティアン・ブイヨン、「RAW~少女のめざめ~」のブーリ・ランネール、「地下に潜む怪人」のテオ・チョルビ、「ノートルダム 炎の大聖堂」のピエール・ロタンなど。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。
監督:ドミニク・モル
出演:バスティアン・ブイヨン、ブーリ・ランネール、テオ・チョルビ、ヨハン・ディオネ、ピエール・ロタン
日本公開:2024年
あらすじ
10月12日の夜、女子大学生クララが焼死体となって発見された。捜査を担当するのは、昇進したばかりの刑事ヨアンとベテラン刑事マルソー。2人はクララの周囲の容疑者となり得る関係者に聞き込みをするが、男たちは全員クララと関係を持っていたことが判明する。殺害は明らかに計画的な犯行であるにも関わらず、容疑者を特定することができない。捜査が行き詰まるなか、ヨアンは事件の闇へと飲み込まれていく。
感想&解説
フランス人監督ドミニク・モル監督の2019年「悪なき殺人」では、吹雪の夜にフランスの山間の町で女性が失踪し殺害されるという事件をきっかけに、思いもよらない形で5人の男女が繋がっていく物語をスリリングに描くことで張られた伏線が回収され、パズルがしっかりとハマっていく”ミステリー的”な快感度が高い作品だった。初めは無関係に見えた事象が繋がっていくことで最後にはしっかりと輪が閉じる、起伏のある脚本に翻弄される一作だったのである。そしてそのドミニク・モル監督の最新作が本作「12日の殺人」なのだが、このタイトルと前作のイメージからミステリー要素の強い作品を想像していると、まったく逆の作風であることに驚かされるだろう。この映画は「未解決事件」を描いていることを冒頭のテロップから表記しているように、最後まで映画を観ても事件が解決されることはなく、謎解きや犯人当ての要素を期待していると大きく落胆してしまうと思う。
本作を鑑賞していて二本の映画を思い出したのだが、一本は監督自身も語っているように、デヴィッド・フィンチャーの2007年作品「ゾディアック」だ。実際に起こった”ゾディアック事件”をベースに、無差別殺人を追う新聞社の風刺漫画家と刑事が、真相を追っていくうちに事件の闇に飲まれていく映画で、実際の未解決事件を元に描いた作品であることや、主人公たちが次々に現れる容疑者たちを調べながらも、真相にたどり着けない葛藤を描いているなど類似点は多い。本作「12日の殺人」も「ゾディアック」と同じように、事件そのものの真相を描きたいのではなく、この未解決事件に関わった人間たちの葛藤を描いた作品なのである。ハリウッド映画としてジェイク・ジレンホール、マーク・ラファロ、ロバート・ダウニー・Jrなどのスターが出演していた「ゾディアック」と比べると、(当然だが)配役も地味だし、フランス映画らしい演出のテンポ感も相まって鑑賞後のカタルシスを得にくい、娯楽映画としての満足度は低い作品と言えるかもしれない。
そして、もう一本はデイビッド・リンチの「ツイン・ピークス」である。ここからネタバレになるが、焼死体で見つかった21歳の被害者クララの捜査を進めていく刑事ヨアンとマルソーだが、彼らの前にはバイト先のウェズリー、ボルダリングジムのジュール、ラッパーのギャビ、無職のドニ、DV男のヴァンサンと入れ替わり立ち代わり、男性の容疑者が浮上してくる。そして彼らは全員クララと性的関係にあり、しかも彼女が他の男とも同じように寝ていることを知っているという状況なのだが、この設定は「ツイン・ピークス」の被害者ローラ・パーマーを思い出させる。ローラ・パーマーも主人公のクーパー捜査官が調査を進めていくうちに、麻薬の常習犯であり、事件直前には複数人の男性たちを関係を持っていたことが判明する。どちらも最初は無垢な存在だと思われていた被害者女性の裏の顔が、段々と判明していくストーリーだからだ。
本作での被害者クララも、登場シーンは非常に友達想いのどこにでもいる女の子という印象だが、捜査が進むうちに刑事ヨアンと同じように観客も、クララの奔放な性行動を知り、殺された彼女にも非があったのではないか?という気持ちにさせられる訳だ。だが、実はここに大きなテーマが隠されている。それは「男と女の溝」だ。映画中盤クララの親友であるナニーが、刑事ヨアンに「なぜ容疑者である彼女と関係のあった男たちの存在を隠すのか?」と問われた際、「クララを尻軽のように見ないでほしい。彼女は悪いことはしていない。クララが殺されたのは、彼女が女の子だったからだ。」と涙ながらに答えるシーンがある。これは彼女の私生活の素行が彼女の殺される理由にはならないことを訴えるシーンで、彼女の付き合っていた男たちはむしろクララを「セフレ」と呼び、真剣に彼女のことを考えている男たちではなかったし、クララの行動は誰かを傷つけていた訳ではないからだ。
そしてこの事件を追う刑事は、逆に古い考えに固執する典型的な体育会系の男たちだ。若手刑事が結婚すると聞けば、結婚についてのネガティブな意見を言い破綻すると決めつけるし、被害者クララに対しても「好きモノは殺されても仕方ない」という、あり得ない発言をしてしまう。終盤、一旦は未解決でクローズするかに見えた事件だが、女性判事が捜査再開を告げたことにより、女性捜査官のナディアがチームに加入してくるが、彼女の「殺すのもそれを捜査するのも男だけ。男の世界ね。」というセリフがある。あまりに男性優位な社会の中で男の身勝手な理由によって殺された女性と、それを罰せられない男たちへの諦めのようなセリフだったが、本作を貫くテーマは21歳の女の子に生きたまま火をつけてしまうような、”残虐な男たちへの警鐘”だ。恐らくクララを殺したのは本作では登場すらしなかった、”ただの男”なのだろう。大方、自分には振り向いてくれないのに多くの男たちと浮名を流す彼女への恨みが講じての犯罪で、横恋慕した知り合いか変質者の犯行なのだと思うが、それによって尊い命が絶たれるなど、女性からすれば恐怖でしかない。
冒頭の自転車でヨアンがトラックをひらすら周回するシーンは、彼が事件の真相に近づけずに囚われていることを表していると思うが、刑事を辞めたマルソーからのアドバイスに従い、ラストシーンでは峠の急な坂道を登っているシーンで本作は終わる。ヨアンはまだ苦しい坂の途中ではあるが、ペダルを漕ぎ続けていけばいつかは目的地に着くことを示唆する、オープニングと対比させた見事な演出だ。そして本作におけるマルソーは、”善意の象徴”として位置している。妻に浮気された上に妊娠し離婚を告げられた彼は、DV男に怒りを抱き、矢も楯もたまらず家に押しかけてしまう真っすぐなキャラクターだ。そんなマルソーにはこの事件を取り巻く男たちが、誰一人として理解できない。そしてその怒りは相棒であるはずのヨアンにも向けられ、遂に彼は刑事という立場を退いてしまう。だが最後にヨアンにリンドウの写真を送り、受け取ったヨアンがマルソーを友達だと認めることで、ヨアンは人間的に成長する。だからこそラストシーンは青空の下に走り出せているのである。トラックを周回している時は全て夜だったことからも、この意図は明確だろう。
最後に、序盤の殺人シーンやクララの墓での盗撮のシーンなど、本作の重要なシーンにはいつも”黒猫”の存在がある。これは前作「悪なき殺人」の劇中で、”犬”がさまざまな事件の真相を知る“目撃者”として描かれていたのと呼応させているのだろう。そもそも「悪なき殺人」は、第32回東京国際映画祭では「動物だけが知っている」というタイトルで上映されている事からも、これはドミニク・モル監督の作家性であり、刻印のようなものだと想像する。それにしても描きたいテーマと内容が、ややアンマッチで分かりづらい作品になっていた気がする本作。ラストのカタルシスも薄いため、鑑賞後にモヤモヤとした気持ちになってしまう方も多いだろう。個人的にも前作「悪なき殺人」の方が好みだったが、時間が経つと自分の中で評価の高まるタイプの作品なのかもしれない。ただドミニク・モル監督は間違いなく才能のある監督だと思うので、次回作も楽しみだ。
6.0点(10点満点)