2021年に公開された、フランク・ハーバートのSF小説の映画化「デューン 砂の惑星」の続編が日本でも公開になった。前作は第94回アカデミー賞で、「作曲賞」「録音賞」「編集賞」「美術賞」「撮影賞」「視覚効果賞」の計6部門に輝いており、技術的に高い評価を得た作品だった。本作の監督は「複製された男」「メッセージ」「ブレードランナー2049」などのドゥニ・ヴィルヌーブが続投。出演陣はティモシー・シャラメ、ゼンデイヤ、レベッカ・ファーガソン、ジョシュ・ブローリン、ハビエル・バルデム、デイヴ・バウティスタなどの前作キャストに加え、「エルヴィス」のオースティン・バトラー、「ドント・ウォーリー・ダーリン」のフローレンス・ピュー、「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」のレア・セドゥ、「トゥルー・ロマンス」クリストファー・ウォーケンなどが起用され、豪華キャストになっている。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。
監督:ドゥニ・ヴィルヌーブ
出演:ティモシー・シャラメ、ゼンデイヤ、レベッカ・ファーガソン、オースティン・バトラー、フローレンス・ピュー
日本公開:2024年
あらすじ
その惑星を制する者が全宇宙を制すると言われる砂の惑星デューンで繰り広げられたアトレイデス家とハルコンネン家の戦い。ハルコンネン家の陰謀により一族を滅ぼされたアトレイデス家の後継者ポールは、ついに反撃の狼煙を上げる。砂漠の民フレメンのチャニと心を通わせながら、救世主として民を率いていくポールだったが、宿敵ハルコンネン家の次期男爵フェイド=ラウサがデューンの新たな支配者として送り込まれてくる。
感想&解説
約3年ぶりの続編という事で、ブルーレイで前作を観返した上で鑑賞してきたが、やはり本作もなるべく大きなスクリーン、できれば”IMAX”での鑑賞をオススメしたい一作だ。だがIMAXは逆に情報量と没入感がすごいので、俯瞰して全体の構図や役者の演技を楽しみたいという事であれば、通常上映でも十分に楽しめると思うが、配信を待つよりも、映画館で鑑賞した方が楽しめる映画なのは間違いないだろう。本ブログでは前作を「面白さよりも美しさを優先したSF映画」と評したが、本作「PART2」もやはり基本的には同じ路線を踏襲しつつ、物語的な起伏が大きくなりストーリー展開としてかなり動いていくので、前作のような”静的”な映画とは感じられないと思う。上映時間は166分もあるが、基本的にはスクリーン上で起こるイベントを食い入るように眺めていると、映画が終わっているという体感スピードだ。
それにしても、スケールの大きな「超大作」という名に相応しい作品だ。前作でも感じたが上映時間166分の間、本当に気の抜けたショットが全くないのだ。VFX満載の広大な俯瞰ショットの直後に数秒間、俳優のバストアップが挟み込まれるというカットにおいても、漠然とカメラを置いただけというショットは一つもない。構図/画角/衣装/ライティング/メイク/俳優の演技を含めて、完全にコントロールされた映像になっており、この5秒間のショットに一体何人のスタッフと撮影時間が費やされているのだろうと、想像するとクラクラしてくる。しかもスタジオ撮影だけではなく、アブダビの砂漠など過酷なロケ撮影も多かったと思うと、屋外ならではの突風や太陽の位置/気温などの環境面から、役者陣の健康面やメンタルケア、電源の確保やケータリング、カメラの設置環境やバックアップなど、この映像を作り上げるための努力と技術的な到達点はほとんど偉業とも言えると思う。やはり本シリーズは、現代版「アラビアのロレンス」なのだ。
本作の撮影監督は、「ゼロ・ダーク・サーティ」「THE BATMAN -ザ・バットマン-」「ザ・クリエイター/創造者」のグレイグ・フレイザーで前作からの続投となっているが、自然光による撮影が得意な撮影監督らしく、本作でも彼の功績はあまりに大きいと思う。全編IMAX認証デジタルカメラで撮影された映像は、本当に砂の惑星アラキスの光景が目の前に実際に広がっているかのようだ。そして色彩設計がまた素晴らしい。極限まで色味を排した全体的にクールな色調で統一されている中、ほとんど本作唯一の鮮やかな色味はフレメンたちの目の色である”青”で、彼らの存在感が際立っている。また中盤における、フェイド=ラウサがハルコンネン男爵の前でアトレイデスの生き残りと戦う闘技場のシーンでは、画面がほぼモノクロになるがこれもこれまでの色味を排した画面の延長として、”大気汚染”の表現として効果的だった。ただ、できればここで”血の赤”が表現できていれば更に効果的だったと思うのだが、本作では不自然なくらいに”血の表現”が全くない。これは残念な点だったが、恐らくレーティングに配慮したのだろうと想像する。
ちなみに今作は前作の数時間後の設定で始まるので、復習はマストだろう。冒頭のポールとフレメンたちが運んでいる「あの死体袋の中は一体誰だっけ?」となってしまうと、いきなり置いてきぼりを食ってしまうので、「ベネ・ゲセリット」「ハルコンネン」「フレメン」「クウィサッツ・ハデラック」などの単語を聞いて、”それが何か?”がパッとイメージできる位で臨むのが良いと思う。さすがに3年ぶりの続編鑑賞だと厳しいと思うので、ここだけは注意が必要だ。それだけ本作はキャラクター相関図が複雑になっていくし、色々な人物や団体の思惑が交じり合ってくるからだ。ここからネタバレになるが、今回のティモシー・シャラメ演じるポールは、アトレイデス家の後継者としてだけではなく、フレメンたちを率いる救世主として新たな運命を背負っていく。さらに母親ジェシカとの関係性の変化や、ゼンデイヤ演じるチャニとのラブストーリーという新たな側面も描かれ、ポールは”ポール・ムアディブ・ウス―ル”として、そして”クウィサッツ・ハデラック”として権力の階段を登りつめていく。
一方、前作では強大な敵として登場したハルコンネン家は、見事なまでに衰退する。特にデイブ・バウティスタ演じるラッバーンは、本作では完全にイジメられキャラになっており、叔父であるハルコンネンからは見放され、弟のフェイド=ラウサからも馬鹿にされた挙句、ジョシュ・ブローリン演じるガーニイとの一騎打ちではあっけない最後を遂げてしまう。前作のジャミスとの対決を思い出させるようにフェイド=ラウサはポールとの決戦という見せ場がある事と、強烈なサイコパスという設定のためにキャラは立っているが、それでも出演時間としてはかなり短く退場となる。本作においての真の敵は、ある意味でハルコンネン家でも皇帝でもなく、組織の中の”権力”を巡ってのいざこざだ。預言者という絶対的なリーダーを熱望する者、それを担ぎ上げようとする者、反発する者、そして愛する人と生活を望むのに運命に翻弄されてしまう者、そしてカリスマとして覚醒し、愛する者を失ってしまう者。宗教的設定と政治色がミックスされた、単純な救世主誕生の物語ではない”苦い大人な結末”となっていくのである。
だからこそ、本作の展開は本当に性急だ。虐殺によって逃げ延びたアトレイデス家の公爵ポールが、やっとフレメンと合流するまでが前作のラストだったが、この二作目はそこから皇帝まで昇りつめるまでを描いているので、シーンの詳細をチンタラと描いている時間は無かったのだろう。ポールがフレメンに認められる為に砂漠を旅するシーンはバッサリとカットされて、次のシーンではもう一緒に戦っているし、ポールが”命の水”で死にかけるシーンもなんの説明もなく突然チャニの涙で生き返るしで、特に終盤の展開はただただ画面に起こっている事態を受け入れることしかできない。膨大な情報量と圧倒的な映像の説得力によって、強引に押し切られてしまう感覚なのだ。そして前作まではその美しさこそが、「DUNE」にティモシー・シャラメがキャスティングされた理由だろうと思ったが、この「PART2」では美しさだけではなく、民衆を導くカリスマ性と英雄性を演技で表現していて、彼以外のキャスティングは考えられないほどだった。
北米では初日3日間で前作を倍近く上回るオープニング興収を記録し、超大ヒットしているらしい本作。特にIMAXで体験しようとする観客が殺到しているらしいが、ここまで映画館での鑑賞に適しているハリウッド大作はなかなかないだろう。同じように映画館での鑑賞体験にこだわるクリストファー・ノーラン監督が、「このPART2はまるで『帝国の逆襲』だ」と、スターウォーズシリーズの名作を引きあいに出して賛辞を贈ったらしいが、本当に”映像作品”として凄まじい作品だったと思う。これだけヒットしている事もあり、この「PART2」も物語的には途中で終わってしまうため、三作目の制作も確実にあるだろう。これだけ映画がある中で、古典的なSF小説の映像化をこれだけ先進的に作れるというのは、クリエイターのセンスの賜物でしかない。本作はドゥニ・ヴィルヌーブ監督とグレイグ・フレイザー撮影監督による、映画史に残る仕事だと思う。
9.0点(10点満点)