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映画「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」ネタバレ感想&解説 悪魔や厄災のメタファーであるマーティンを演じた、バリー・コーガンの演技が素晴らしい!

「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」を観た。
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あの怪作「ロブスター」を撮ったヨルゴス・ランティモスの新作に、コリン・ファレルニコール・キッドマンといったハリウッドスターが出演するという事で、公開前からかなり気になっていたが、やっと鑑賞。それにしても3月は、ギレルモ・デル・トロクリント・イーストウッドアレクサンダー・ペインミヒャエル・ハネケと、見逃せない監督の新作に加え、マーベルやピクサーの新作も公開されるという異常事態である。さて、本作「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」は、どんな作品であったか?第70回カンヌ国際映画祭脚本賞を受けている本作だが、今回もネタバレありなのでご注意を。

 

監督:ヨルゴス・ランティモス
出演:コリン・ファレルニコール・キッドマンバリー・コーガン
日本公開:2018年

 

あらすじ

舞台はアメリカのオハイオ州シンシナティ。優秀な心臓外科医スティーブン(コリン・ファレル)は、美しい妻アナ(ニコール・キッドマン)と娘キム、息子ボブの4人で裕福な生活を送っている。だがスティーブンは、かつてアルコール依存症で、手術中にある男性患者を死なせてしまうという過去を持っていた。その罪悪感からか、家族に内密で、死なせた患者の息子マーティン(バリー・コーガン)を気にかけている。マーティンは表面上、礼儀正しく節度ある青年だった為、ある日、スティーブンはマーティンを自宅に招き、家族に紹介してしまう。だが、これがきっかけでスティーブンの子どもたちに、奇妙なことが起こり始める。息子ボブが突然歩けなくなってしまったのだ。医学的には原因不明。そして、それは娘のキムにも伝染してしまう。そんな時、マーティンはスティーブンに恐ろしい事を告げる。これからスティーブンの家族は順番に歩けなくなり、目から血を流し、そして最後は死ぬと言うのだ。その症状が現れるのは、スティーブン以外の三人。これを止めるには、家族の一人を殺すしかないと言う。こうしてマーティンの静かな復讐が始まった。

 

 

感想&解説

鑑賞後、しばらく忘れられない一作である。ヨルゴス・ランティモス監督の独特の世界観が炸裂した怪作だ。まさに不条理で理不尽。前作の「ロブスター」でも、とあるホテルに集められ、45日以内に自分の配偶者となる人を見つけなければ、動物に姿を変えられてしまうという異様な世界観の物語を、ある意味コミカルに、そしてひたすらダークに語っていたが、この有り得ない突拍子もない設定を、喜々として観客に強要してくる感じが、この監督らしさだと思う。

 

さて本作「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」だが、オープニングから度肝を抜かれる。手術中の心臓が力強く波打っている様が画面いっぱいに映し出され、これが30秒近く続くのだ。これが結構グロい。また全編に渡って、不穏なストリングスとピアノの不協和音が響き、観客を落ち着かない気分にさせる。非常に淡々とした演出ながら、突然俯瞰した画面にショッキングな展開が起こったりと、特に中盤以降はスクリーンから目が離せない。とにかく映画から提示される情報に翻弄されるのだ。

 

ストーリーの大枠は、飲酒しながらの医療ミスにより患者を死なせてしまった医師スティーブンに、その患者の息子マーティンが復讐をするというプロットなのだが、その方法が奇抜だ。まず医師の子供たちが順番に歩けなくなるのである。そして遂には、彼らは死に至るとマーティンにより示唆されるのだが、それを回避するにはスティーブンの家族である、妻アナと子供たちであるキムとボブの三人のうち、誰か一人を殺すしかないという。しかも、何故マーティンにそんな事が可能なのか?何故、その回避方法を知っているのか?などの説明は、劇中では一切ない。自分に過失があるとはいえ、医師のスティーブンは突然降って湧いた、不条理な選択に苦悩することになるのだ。

 

そしてバリー・コーガン演じる、このマーティンというキャラがとにかく恐ろしい。中盤にスパゲティを食べながら、自分の父親の話をするシーンがあるが、ただ食べているだけなのに、彼の乱雑で下卑で暴力的な面が浮き彫りになってしまうという名シーンだった。またある時は自分の腕の肉を噛みちぎり、母親であるアナは命乞いの為にマーティンの足に口づけをする。多分にキリスト教的なニュアンスを含む数々のシーンからも推察される様に、この映画におけるマーティンは、悪魔や厄災のメタファーなのだろう。そして、この悪夢の全てが彼の仕業であることは、入院中の娘キムが病院でマーティンと電話している時だけは、歩けるようになる描写から明らかだ。彼がこの謎の病状のすべてをコントロールしているのである。

 

 

劇中で最も不快なシーンは、誰を殺すか決定出来るという圧倒的な選択権を与えられた父親スティーブンに、自分は殺さないでくれと、それぞれがアプローチしてくる場面である。息子のボブは、以前から父親に注意されていた長髪を自らハサミで切り、今後は言う事を聞くからと従順になり、妻は「子供はまた作れる、だから私は生き残った方が良い」と不仲だった夫を突然セックスに誘う。そして、娘キムは「自分を殺して」と犠牲になるフリをするが、その前のシーンではマーティンと一緒に逃げようと誘っている為、これはフェイクだと分かる。またスティーブンは学校の教師にキムとボブのどちらが優秀かを聞き出す始末であり、この極限状態において家族の絆など、いかに脆弱かをありありと映し出す。これらの場面の数々が、観客をあまりに絶望的な気持ちにさせるのだ。

 

終盤のシーン、スティーブンは自ら目隠しをして猟銃を持ち、妻と子供たちを周りの椅子に座らせ、グルグルとその場で回転する事により、誰に弾が当たるかわからない様にして発砲する。何度か弾を外しながらも、遂にその銃弾は息子のボブに当たり、彼は絶命する。その後、場面は変わり、ラストシーン。家族はダイナーで食事をしている。もちろん生き残った三人でだ。そこにマーティンが現れる。キムは目の前のポテトフライに血を思わせるような真っ赤なケチャップをかけ、マーティンはじっとりとスティーブンたち家族を見ている。そして家族は立ち上がると、スティーブンを先頭に店から出て行く。歩けるようになった娘のキムが最後尾だ。マーティンは、それを無表情に見送り、突然エンドクレジットとなる。

 

ちなみにこの映画のなかには、タイトルにある鹿や鹿殺しの話はいっさい出てこない。一瞬だけキーワードのように登場する、ギリシャ神話の悲劇「アウリスのイピゲネイア」で、ギリシャ軍総大将アガメムノンが女神アルテミスの鹿を殺し、その償いとして彼自身の娘イピゲネイアを捧げるよう命じられるという、神話をモチーフにしているらしいが、これもハッキリとは明言されない。だが本作の描かれている内容から、この「アウリスのイピゲネイア」が作品のモチーフなのは間違いないだろう。前作「ロブスター」でも感じたが、この監督の映画はラストシーンで、安易で単純なカタルシスなど与えてはくれないのだ。

 

一見、マーティンという厄災との戦いが終わり、ダイナーを出て光の下に歩き出した家族に平穏が訪れたように見えるが、ここまで作品を鑑賞してきた観客には、そうはならない事を理解している。壊れきった家族にとっては、ここから地獄が始まるからだ。それはまるで、煉獄のように彼らの人生についてまわるだろう。無音のエンドクレジットを観ながら、スティーブンたち家族が悪魔的な存在に翻弄され、完敗する様子が描かれた映画だったことを知り、どうにもやりきれない気持ちになるが、この感情になる事が、この映画の価値だと思うし、それでもしっかりと記憶に残る作品になっているのは見事だった。ヨルゴス・ランティモス監督の次回作も必ず観る事になりそうである。

 

 

採点:7.5(10点満点)