映画「HERE 時を越えて」を観た。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」3部作や「キャスト・アウェイ」などを手掛けたロバート・ゼメキス監督が、1995年日本公開の「フォレスト・ガンプ 一期一会」でタッグを組んだトム・ハンクス&ロビン・ライトを再び起用し、グラフィックノベルを映画化したヒューマンドラマ。出演は「アポロ13」「グリーンマイル」「プライベート・ライアン」のトム・ハンクス、「ブレードランナー 2049」「ワンダーウーマン」のロビン・ライト、「ビューティフル・マインド」「アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン」のポール・ベタニー、「シャーロック・ホームズ」シリーズのケリー・ライリー、「アンナ・カレーニナ」のミシェル・ドッカリーなど。劇中ずっと定点カメラからの視点を貫くことで、その場所で生きる家族の模様を描いた風変わりなコンセプトの作品だ。トム・ハンクスはVFXの技術によって10代~70代の姿を演じている。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。
監督:ロバート・ゼメキス
出演:トム・ハンクス、ロビン・ライト、ポール・ベタニー、ケリー・ライリー、ミシェル・ドッカリー
日本公開:2025年
あらすじ
恐竜が駆け抜け、氷河期を迎え、オークの木が育ち、先住民族の男女が出会う。やがてその場所に家が建てられ、いくつもの家族が入居しては出ていく。1945年、戦地から帰還したアルと妻ローズがその家を購入し、息子リチャードが誕生する。世界が急速に変化していくなか、絵を描くことが得意なリチャードはアーティストを夢見るように。高校生になったリチャードは別の学校に通う弁護士志望のマーガレットと恋に落ち、2人の思いがけない人生が始まる。
感想&解説
ロバート・ゼメキス監督作品の代表作といえば、やはり1985年日本公開「バック・トゥ・ザ・フューチャー」からのシリーズ三部作だろう。今でも定期的にリバイバル公開されて、”洋画”といえば「BTTF」だという方も多いと思う。ロバート・ゼメキスがボブ・ゲイルと手掛けた脚本の出来も出色だったし、アラン・シルベストリによる音楽も素晴らしく、主演のマイケル・J・フォックスとクリストファー・ロイドのコンビネーションも併せて、全てが奇跡のバランスで成り立った作品だった。だからこそ今でもリメイクされていない珍しいシリーズだが、その次くらいの知名度に位置するのが、本作の宣伝文句にも登場する94年公開「フォレスト・ガンプ 一期一会」だと思う。主演トム・ハンクスによる代表作の一本だろうし、ロビン・ライトもゴールデングローブ賞助演女優賞にノミネートされた事でキャリアのステップアップになった超有名作だ。
その後も「ロジャー・ラビット」「永遠に美しく…」「コンタクト」や「キャスト・アウェイ」などの話題作を定期的に発表し、ハリウッドのヒットメイカーとして君臨したロバート・ゼメキスだが、彼のひとつの転機なったのは2004年公開の「ポーラー・エクスプレス」だった気がする。”パフォーマンス・キャプチャー”という技術で、俳優の表情と動作を全方位から記録し、それをCGIに反映させてキャラクターを作成した3DCG作品でトム・ハンクスは5役を担当していたが、正直映画としてはかなり厳しい出来だった。その技法は次作の「ベオウルフ 呪われし勇者」でも踏襲され、さらに2009年「Disney's クリスマス・キャロル」まで続くが、それぞれ興行的に厳しい結果となったことで、”ロバート・ゼメキス監督”というブランドがかなり停滞した時期だったと思う。その後も「フライト」「ザ・ウォーク」「マリアンヌ」といった佳作もあったが、ここ10年くらいはパッとしない作品が続いているという印象だ。
おそらくロバート・ゼメキスは、新しい技術や技法を積極的に取り入れたい監督なのだと思う。「フォレスト・ガンプ 一期一会」における実写のジョン・レノンやニクソン大統領とガンプとの共演シーンや、「ロジャー・ラビット」のアニメキャラクターと実写俳優の共演、「コンタクト」における地球外知的生命との接触シーンや、「永遠に美しく…」の不老不死キャラ同士のドタバタ肉弾戦など、新しい技術とモチーフが上手く融合した作品については”過去に観た事のない映画”として評価されるが、「ポーラー・エクスプレス」のようにそれが完全に空振りに終わることもある。そしてそんなゼメキス監督の最新作が、この「HERE 時を越えて」だ。非常にコンセプチュアルな作品なのは、”いかにも”といったところだろう。
劇中一か所に置かれた定点カメラは、ラストの1シーン以外に動くことはない。そして冒頭から、地球の創生から生物の誕生と滅亡を経て、人類が生まれてある家が建つところまでを一気に描いていく。さらにその家に住むいくつかの家族の生活を、カメラを動かさずに、ほぼランダムに繋いでいくという構成を取っているのだが、それはリクライニングチェアの発明家夫婦だったり、差別に怯える黒人家族だったり、飛行機に夢中な夫を持つ女性だったり、もっと昔の先住民族だったりする。これらのエピソードは緩やかな接点を持ちながら、メインキャラクターの家族の元軍人アルと妻ローズ、そして息子リチャードたちの物語に繋がっていくのだ。ただそれはあくまでストーリーとしての接点ではなく、キャラクターの”感情と場面”のリンクだけで、楽しい場面ではその雰囲気を演出するために幸せな夫婦のダンスが描かれる。メインパートの箸休め的に、他の家族の短いシーンを挟んでいくという奇妙な構成をとっているのだ。しかもカメラが動かない為に、俳優の表情にクローズアップ出来ず、キャラクターの感情が分かりづらいため感情移入がしにくい。構図ありきの画面構成なので、見たいところにカメラが寄らないのだ。やはり映画においてカメラワークは重要な要素だという事が解る。
しかも「飛行機は未来だ」と言い、家を担保に飛行機を購入して娘を飛行機に乗せたことで、事故を恐れている妻に激怒された挙句、夫は早くに死んでしまうがその原因が墜落死ではなくインフルエンザだったというシーンなどは、まったく笑えない上に、メインのストーリーとの関連も強引で上手くない。さすがに一つの家族だけで定点では、画替わりがなくて厳しいと判断したのだろうが、過去の家族とのリンクにはほとんど意味がないのである。そしてストーリーの中心は、トム・ハンクス演じるリチャードとロビン・ライト演じるマーガレットの夫婦の物語となるのだが、これがまたボンヤリとした鬱な展開で、かなり物語の推進力が弱い。ここからネタバレになるが、本作はいわゆる家族内の幸せと不和を描いた”ファミリーもの”だ。戦争によってメンタルを病んで攻撃的な父親と愛情豊な母親のもとで育ったリチャードが、ガールフレンドの妊娠によって画家になる夢を捨てて父親になるが、どうしても家を離れたい妻マーガレットとは徐々に心が離れていく。
そして家族の精神的な中心だった母ローズが倒れ、治療のために家を離れるが紆余曲折あって亡くなってしまった為、父アルがまた家に戻ってくるが寝たきりになり、遂にはマーガレットはリチャードの元を離れて、家を出て行ってしまう。リチャードは税金や不景気のせいで新しい場所に行くことを恐れ、この家に縛られたことによって本当に大切なものを失ってしまうのだ。挙句、家を出たマーガレットは念願のパリ旅行に行ったりと、人生を謳歌するするが、残されたリチャードはひとり夢だった絵を描き始める。だが久しぶりに再会したマーガレットとの復縁は拒絶されてしまい、そして老人になった二人がもう一度、部屋のイスに座って過去を思い出すシーンで”カメラがやっと動き出し”、窓を抜けて家が”売り”に出されている看板を映しながら映画は終演を迎えるのだ。ラストで窓の外からカメラが動いたということは、彼らの人生における”次のステップ”を意味しているのだろう。
果たして、これはこの手法を使わないと描けなかったストーリーなのだろうか?、そして映画として"描かれるべき話”なのだろうか?この定点で描かれた”家”に縛られた男が、両親の死と向き合い、家族のためと思って必死に働くも妻が描いた未来とは違ったために捨てられるという、ある男の”リアル”な人生を見せられただけの104分であり、そこにはケレンも感動も感じない。「光陰矢の如し」というのがリチャードの口癖だが、本当に早回しで哀しい話を見せられただけという印象だ。「HERE」というタイトルで、しかも定点カメラだけで映画を作るのであれば、この”家自体”がもうひとつの主人公のはずだ。であれば辛い時期があったものの、この家があったお陰で彼らの人生が再生する話でなければ、個人的にはこの場所を舞台にしている意味がないと思う。それはリチャードとマーガレットが復縁する展開じゃなくても良い。例えばリチャードの絵が世間に評価されて、この場所が美術館になったという未来でもいいのだ。手法が奇抜なだけで現実的で哀しい話のため、もっと映画的な飛躍がラストにあっても良かったと思う。コンセプトとストーリーが噛み合っていないのだ。ウィリアム・フランクリンのエピソードも何が描きたかったのか謎だし、画面内に小窓が現れて、少し先の未来を描きながら進む編集は斬新で面白かったが、基本的には"コンセプト先行"で映画的な快感の少ない作品だった印象の本作。ロバート・ゼメキスの不振はまだ続きそうである。
4.0点(10点満点)