映画「悪い夏」を観た。
「アルプススタンドのはしの方」で高い評価を得たあと、「ビリーバーズ」「嗤う蟲」などコンスタントに話題作を公開している城定秀夫監督がメガホンをとり、最近でも「正体」が映画化された作家の染井為人による同名小説を映画化した作品。脚本は「愚行録」「マイ・ブロークン・マリコ」「ある男」などの向井康介が担当している。出演は「君の膵臓をたべたい」で日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞し、「OVER DRIVE」「東京リベンジャーズ」などでキャリアを築く北村匠海、「ナミビアの砂漠」「あんのこと」などで飛ぶ鳥を落とす勢いの河合優実、「スイート・マイホーム」「ラストマイル」の窪田正孝、「港に灯がともる」の伊藤万理華、「ファーストキス 1ST KISS」「サンセット・サンライズ」の竹原ピストルなど。公務員として真面目に生きてきた気弱な男が、ある出来事をきっかけに闇落ちしていくサスペンスだ。今回もネタバレありで感想を書いていきたい。
監督:城定秀夫
出演:北村匠海、河合優実、窪田正孝、伊藤万理華、竹原ピストル
日本公開:2025年
あらすじ
市役所の生活福祉課に勤める佐々木守は、同僚の宮田から「職場の先輩・高野が生活保護受給者の女性に肉体関係を強要しているらしい」との相談を受ける。面倒に思いながらも断りきれず真相究明を手伝うことになった佐々木は、その当事者である育児放棄寸前のシングルマザー・愛美のもとを訪ねる。高野との関係を否定する愛美だったが、実は彼女は裏社会の住人・金本とその愛人の莉華、手下の山田とともに、ある犯罪計画に手を染めようとしていた。そうとは知らず、愛美にひかれてしまう佐々木。生活に困窮し万引きを繰り返す佳澄らも巻き込み、佐々木にとって悪夢のようなひと夏が始まる。
感想&解説
見応えのあるダークサスペンスだったと思う。ただ”生活保護受給”というリアルな日本社会の制度を描きながら、登場人物たちそれぞれの”闇”を浮かび上がらせていく作品なので、正直観ている間はずっと気が滅入る。それだけキャラクターに感情移入できるという事だろうが、本作は役者たちの演技と演出がとても良い。主演の北村匠海が見せる、気弱な市役所の職員というキャラクターはその喋り方や髪型、歩き方から十分に伝わってくるのだ。特に冒頭の竹原ピストル演じる山田との会話は絶品で、彼の性的なことへの耐性や生真面目さ、さらに不正受給者への対応の気弱さなど、このシーンだけで”佐々木”という人物が持っている特徴がすべて描かれており、演出として巧い。
また河合優実演じる愛美も生活自体は困窮しており、毎熊克哉が演じる高野から身体の要求を受けているが故にやさぐれてはいるのだが、頑としてセクキャバでは働かないと拒否する態度からは、彼女が持つ”プライド”のようなものが透けて見える。愛美は佐々木との出会いを通して段々と心境が変化していく難しいキャラクターだが、演技派である河合優実はさすがの存在感だったし、特にサプライズで誕生日ケーキを用意された後の微妙な驚きと喜びの表情のニュアンスは素晴らしい。大仰に喜んでしまうと愛美というキャラクターには似つかわしくないし、かといって彼女が生まれて初めて経験する喜びも表現しないといけないというシーンだが、それらを見事に表現していたと感じる。そして「ずっと一緒にいてくれる?」と言い、静かにカメラのあるリビングではなく隣の部屋に佐々木を誘い、そしてキスをする流れは、彼女の心理の変化が手に取るように分かるのだ。
さらに窪田正孝演じる金本の”裏社会の人間”が醸し出す言動や雰囲気や、高野の軽薄なイケメンぽさと実はファミリーマンという平凡さ、万引きシングルマザーである古川が漂わせる”世の中の不幸を一身に引き受けたような”表情と佇まいなど、役者陣のキャスティングは見事だったと思う。個人的には”山田”が特にお気に入りで、親分に忠誠を誓っているように見せかけて出し抜こうとし、状況をみながら飄々と生き抜いてきたキャラクターを竹原ピストルがコミカルな存在感で演じ切っていたが、本作においての彼の存在はトランプの”ジョーカー”だ。非常に重苦しい展開になっていく本作だが、俳優から滲み出ている”清潔感”と”華”、そして演技アンサンブルによってなんとか鬱々とし過ぎず、いわゆるエンターテインメント作品として成立している映画だろう。キャスティングが違っていたら、もっと重苦しい映画になって後味も違っていたと思う。
ここからネタバレになるが、生活福祉課の佐々木は生活保護受給者である山田の元を訪れる毎日だったが、そんなある日、同僚である高野がケースワーカーの担当である林野愛美に肉体関係を強要していたことから、佐々木の先輩である宮田がその調査に乗り出すことになる。その付き添いで愛美の家を訪れた佐々木は幼い娘の美空と仲良くなり、愛美に対しても特別な感情を抱くようになる。その一方で愛美は元セクキャバの同僚だった莉華に高野の件を相談したところ、それが裏社会で暗躍する金本の耳に入り高野は脅される。だが宮田たち同僚に高野の件がバレていることが発覚すると、金本の子分だった山田は次に佐々木を罠にハメようとする。最初は金のために佐々木をハメようとした愛美だったが、彼の優しさと誠実さに触れたことで、彼女も佐々木に対して恋愛感情を持つようになる。だがそんな山田たちの動きを金本が知ったことで、愛美は美空の存在を人質に取られ、佐々木は愛美とのセックスシーンを録画され彼らに脅されてしまう。
ここから本作の見所である、佐々木の闇落ちシーンが堪能できる。金本が斡旋した浮浪者たちが申請してくる生活保護の申し込みを受理することで、その金を金本がピンハネするという流れに組み込まれた佐々木。無精ひげと生気のない眼で、悪事に加担することは、彼の倫理観では耐えられないことだったのだろう。高野に執着する宮田に対し、冷たい声で「いいかげんにしろよ」と凄むシーンは最高だったし、本来は受理されるべき困窮したシングルマザー古川の申請に対しては、自分のストレスをすべてぶつけるように追い込んでしまい、結果親子は自殺を図ってしまう。そしてそれを警察から知らされた時の佐々木の絶望。それらは”なぜ愛美は自分をハメたのか?”という疑問が解けないことに起因して、彼の心は闇落ちしてしまっている。劇中、佐々木は暗い眼で愛美に「あの”ずっと一緒にいてくれる?”って何だったんだよ?」と問いかけるシーンがあるが、それに対しての彼女の答えは「(自分のことは)わからない」だ。
そして本作におけるシナリオの一番の弱点はここだろう。佐々木と愛美は”自由恋愛”なのだ。妻帯者であり、脅すことで身体を求めていた高野とは違い、業務上ケースワーカーの担当でもない佐々木と愛美は”セックスしても良い関係”なのである。その映像を元に脅迫されているなら警察に駆け込めば良いし、金本のやろうとしていた犯罪を知っている愛美は全てを話して保護してもらうことも可能だろう。子供を盾にして脅されていたのだから、それを佐々木に相談すれば良いのだ。だが愛美は「わからない」と言い、金本の言いなりになってしまう。そして愛美に裏切られた佐々木は自暴自棄になり、犯罪の片棒を担ぐことになる。ただここに作り手は、”社会的弱者”が持っている闇を描いているのかもしれない。愛美の言う「分からない」は、”社会の中での自分の生き方が分からない”という意味で、圧倒的に搾取される側にいる弱者は強者の言いなりになるしかないという、グロテスクな側面を映し出している気がした。皆が社会の常識の中で理性的に立ち振る舞えるわけではないのだ。
そしてラストは嵐の中での大乱闘シーンとなる。「潔白さが私たちの武器だ」と言っていた宮田は実は高野と不倫していたことも発覚し、台風の日に主要登場人物が一気に部屋に集まってくるという流れは、いきなりリアリティラインが揺らいで、”作劇的”な展開となるが、映画はこれくらい飛躍があった方が面白い。そして佐々木が絶体絶命の時、愛美の娘が描いていた絵が嵐によって金本の顔に貼りつくことで、愛美が佐々木を救うという展開も”超越的な存在”を感じさせるが、映画においての超越的な存在とは監督であり脚本家だ。このラストシーンについては文字通り、今まで丹念に積み上げてきた”強者と弱者の構造”、いわば搾取する側と搾取される側という立場をすべて”水に流す”ことによって、大きく逆転してみせる。そしてジョーカーである山田はこのカオスから離脱して、ちゃっかり一人だけ脱出しているのである。エンディングは夏が過ぎた寒い季節に、黄色い小さな傘のある部屋に佐々木が「ただいま」と入っていくシーンで終わる。あの部屋には愛美たち親子がいるのだろうが、多くを語り過ぎない爽やかでスマートな終わり方だった。ややテーマが重いので、エンタメ作品としての食い合わせの悪さは感じるが、役者の演技とラストの嵐の中の大乱闘というトンデモ展開によって、しっかりと娯楽性も担保している映画だと思う。
7.0点(10点満点)