映画を観て音楽を聴いて、感想を書くブログ

会社員バンドマンが綴る、映画と音楽のブログです。過去の名作から、新作まで綴っていこうと思います。音楽についても書くかもしれません。

「ジュラシック・ワールド/炎の王国」を観た(完全ネタバレ&解説アリ)

ジュラシック・ワールド/炎の王国」を観た。

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監督:J・A・バヨナ

出演:クリス・プラットブライス・ダラス・ハワードジェフ・ゴールドブラム

日本公開:2018年


前作「ジュラシック・ワールド」から3年、再びクリス・プラットブライス・ダラス・ハワードのコンビが活躍する、シリーズ通算5作目。前作の監督であるコリン・トレボロウは製作総指揮と脚本に回り、今回は2012年「インポッシブル」や2016年「怪物はささやく」のJ・A・バヨナが監督を務める。実はこの二人、今作を観てジュラシックシリーズを作るには最良のコンビだと思ったが、個人的には第1作を除く過去のシリーズの中でも、本作は最高傑作だと感じた。今回も完璧にネタバレありなのでご注意を。

 

あらすじ

ハイブリッド恐竜とT-REXの死闘により崩壊したテーマパーク「ジュラシック・ワールド」が存在するイスラ・ヌブラル島。この島で、火山大噴火の予兆が観測されていた。危機的状況が迫る中、人々は恐竜たちの生死を自然に委ねるか、自らの命を懸けて救い出すか、究極の選択を迫られる。テーマパークの運営責任者だったクレア(ブライス・ダラス・ハワード)は恐竜の救出を決意し、恐竜行動学のエキスパートであるオーウェンクリス・プラット)を誘い、すぐさま行動を開始。ところが島に向かったその矢先、火山が大噴火を起こす。こうして、生き残りを賭けた究極のアドベンチャーが幕を開けたのだった。

 

感想&解説

1993年のスティーブン・スピルバーグ監督の「ジュラシック・パーク」から、はや25年。いまだ映画史に残る名作として名高い作品であるが、「恐竜に襲われる」という基本的なメインコンセプトから脱却できない本シリーズは、2001年の第三作目「ジュラシック・パークⅢ」あたりで、(作品の完成度は置いておいて)若干の飽きを感じ始めたのは否めない。だからこそ、前作にあたる4作目「ジュラシック・ワールド」は14年ものインターバルを置いて公開され、タイトルやキャストも一新し、新シリーズとしてのスタートを切ったのである。


前作におけるクリス・プラットブライス・ダラス・ハワードのコンビは新鮮さもあり映画の質も高かったが、どうしても「恐竜パニックアクションもの」という確固たるフォーマットからの脱却は難しく、いつもの「ジュラシックシリーズ」というイメージが強かったと思う。その3年後という、まだ記憶も新しいままの続編公開という事で、予告編を観た時点では正直まったく期待をしていなかったのだが、なんと本作「ジュラシック・ワールド/炎の王国」はその予想を大きく上回る傑作だったと思う。


まず冒頭から出し惜しみなく、まるでクライマックスが如く恐竜たちが出現し、否応なくアクションシーンに引き込まれる。またこの演出が上手く緩急をつけた意外性のある見せ方で、俄然これからの展開に期待が高まる。そして主人公二人がイスラ・ヌブラル島に渡って火山が大噴火する中、恐竜たちと逃げるシークエンスや船で脱出する際のアクションシーンなど、単純に恐竜に追いかけられるだけのアクションに終始せず、まるで往年の名作スピルバーグ印のアクションを観ているようなアイデア満載のシーンでこちらを飽きさせない。個人的に、この映画の前半を観ながら一番連想した作品は「インディ・ジョーンズ」だったほどだ。


ところが後半はまた映画のテイストが大きく変わる。前半は「インディ・ジョーンズ」+「ジュラシック・パーク」といったアクション路線だったものが、後半は「エイリアン」の要素が強くなる。しかもリドリー・スコット監督の79年作品「エイリアン」の様な、ある密閉された空間で圧倒的な力の差がある怪物から逃げるというホラーテイストが俄然強調されるのである。この演出こそが本作の監督をJ・A・バヨナが任された一番の理由なのだろう。前半と後半で映画の見せ方をガラッと変える事で観客を飽きさせず、今作の設定の肝である「人間の科学によって作られた命」や「その命の売買」というダークな設定が活きる世界観を創り出している。非常に考えられた構成になっているのだ。


そして、なんと言っても今作の肝は「ストーリーの着地」だろう。本作は「ジュラシック・ワールド」シリーズの2作目という立ち位置だ。よってラストにて更に続編がある事が示唆されるが、これがこちらの予想を大きく上回る展開を見せる。なんと生命工学で作られた恐竜たちが世界中に放たれてしまうのだ。ジェフ・ゴールドブラム演じるイアン・マルコム博士が言うラストのセリフ「ジュラシック・ワールドへようこそ!」は、第3作目で描かれるであろう、人間社会と恐竜の共存と対立という大きなテーマに繋がっていく。


そしてもう一点、劇中「メイシー」という少女が現れ主人公たちと行動を元にするのだが、この少女が実は「クローン」である事が判明する。この設定によりますますSF的な要素が加わる訳だが、クローン人間はこの世界においてメイシーだけとは限らない為、次回作のシナリオとしての振り幅はとんでもなく広がるだろう。人間とクローン人間、そしてクローン恐竜という三つ巴の攻防戦や、原作者のマイケル・クライトンが本来描きたかったであろう、人間による化学の濫用、クローンに対する倫理観、恐竜を人間が管理するという欺瞞などが描かれる気がする。


「パークの中で恐竜から逃げる」というシンプルなアクション映画だった第1作目から、第5作目にして遂にここまでの飛躍を見せた本作。まさに劇中の恐竜の様に、様々な過去の名作のハイブリッド感が楽しめると同時に、映画的な演出の上手さも光る痛快作だ。次回作が楽しみになる続編としてはこれ以上の「ジュラシックシリーズ」は無いと思う。序盤から非常にテンポ良くストーリーが進み、キャラや設定の説明は特に無いので、前作の第4作目は必ず鑑賞しておく事と、出来れば第1作目は観ておいた方が確実に楽しめるだろう。今夏公開の大作ラッシュの幕開けとしては申し分ない傑作であったと思う。

「女と男の観覧車」を観た(完全ネタバレ&解説アリ)

「女と男の観覧車」を観た。

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監督:ウディ・アレン

出演:ケイト・ウィンスレットジャスティン・ティンバーレイクジュノー・テンプル

日本公開:2018年


ウディ・アレン監督82歳の長編49本目作品。24回もアカデミー賞にノミネートされ、監督賞と3度の脚本賞に輝いた映画界の名匠が、「タイタニック」「エターナル・サンシャイン」「愛を読むひと」などで有名なオスカー女優、ケイト・ウィンスレットをヒロインに抜てきし撮影した、これぞウディ・アレン作品としか言いようのない、ペシミスティックでアイロニカルな一作であった。ケイト・ウィンスレットは、意外な事にウディ作品には初出演という事だが、素晴らしい名演を見せている。今回もネタバレありで。

 

あらすじ

1950年代のコニーアイランド。遊園地のレストランでウエイトレスとして働く元女優のジニー(ケイト・ウィンスレット)は、再婚同士の夫と自分の連れ子と一緒に、観覧車の見える部屋に住んでいた。平凡な日々に幻滅し、海岸で監視員のアルバイトをしている脚本家志望のミッキー(ジャスティン・ティンバーレイク)とひそかに交際する事になったジニーだったが、ある日久しく連絡がなかった夫の娘キャロライナが現われたことで歯車が狂い始める。

 

感想&解説

いわゆるドロドロの人間ドラマである。日常に疲れ、現実逃避を夢見る元女優の人妻ジニーはDV気味の旦那ハンプティ、放火癖のある息子リッチーと共に暮らし、遊園地で働いている。遊園地の中のレストランでウエイトレスとして働くジニーは、ある日、海岸監視員のミッキーと出会い、恋に落ちる。ミッキーは脚本家志望で作家や演劇にも詳しく、釣りや野球しか興味のない旦那ハンプティが持っていないものを全て持っていた。しばらくは楽しく逢瀬を繰り返す二人。だが、突然ハンプティの娘キャロライナがギャングの夫から逃げてきて、家に転がり込んでくる事から事態は大きく変わる。家族に危険が及ぶ事を恐れるジニーだったが、娘の将来を気遣うハンプティの説得もあり、キャロライナもウエイトレスとして働きながら同じ屋根の下で暮らし始める。


だがある日、ジニーとキャロライナが一緒に街を歩いているところにミッキーが現れ、お互いに自己紹介をした事から、ミッキーとキャロライナが惹かれ合ってしまう。まさか義理の母がミッキーと付き合っているとは知らないキャロライナは、自分の恋心を素直にジニーに打ち明け始める。どうやら、ミッキーとキャロライナは急接近しているらしい。自分よりも若く美しいキャロライナに激しい嫉妬を感じ、生活が荒れていくジニー。ジニーは今の生活を全て捨てて、ミッキーとの新しい人生を夢見ていたのだ。


結局ミッキーはキャロライナを選び、ジニーとの関係を告白する。ショックを受けるキャロライナ。だが、そんな時キャロライナの元に別れたギャングの夫の手が迫ってくる。キャロライナの居場所を聞きに、ギャングたちが街で聞き込みをしていること、ミッキーとキャロライナがデートしている店をギャングが掴んだことを知ったジニーだったが、ジニーは嫉妬のあまりそれを見て見ぬ振りをしてしまう。次の日になっても家に帰って来ないキャロライナと、心配のあまり荒れ狂うハンプティ。ミッキーもキャロライナの身を案じるが、既にギャングに連れ去られた事や、ジニーはそれを知りながらも助けなかった事に感づき、彼女を攻め、離れていく。そして、失意の中でまた夫ハンプティとの日常に戻っていくところで映画は終わる。


とにかくウディ・アレン監督の過去作にも通底する「人間は愚かだが愛おしい」というテーマを、完璧に踏襲した作品である。劇中、キャラクター達は大声で怒り、泣き叫ぶ。うるさい事この上ないし、特に嫉妬に狂うジニーは非常に見苦しい。キャロライナからミッキーに車で送ってもらった時の事を聞かされた時など、「手は握ったの?」「なんて言われたの?」などと執拗に聞き、狼狽し、そしてキャロライナに当たり散らす。ミッキーは誠意の無い男だと観客は知っているので、その姿があまりにも痛々しく切ない。そして滑稽であるが故に笑えてしまうのである。


この作品の主要キャラクターたちは「ここではない場所」と「本当はこうではない自分」に想いを馳せている。ミッキーにとっては、脚本家として成功しボラボラ島で過ごす自分だろうし、ジニーは女優として成功しミッキーと付き合っている自分だろう。ハンプティは従順なジニーと釣りや野球に行き、幸せに暮らす自分かもしれない。もちろん息子のリッチーだって、今のままで幸せな訳がない。だからこそ、色々なものに放火するのだ。あれが彼なりのストレス発散方法で、実は誰よりも屈折している。


その上手くいかない現実と、理想のギャップに苦しみもがきながら、なんとか目の前の希望を掴もうとするが、この希望は「他者に依存する希望」だからこそ、皆が裏切られる。唯一、自分の力で人生を切り拓こうとしていたキャロライナも、最後は嫉妬に狂ったジニーに陥れられるのだ。なんとも救いがなく、恐ろしくほろ苦い作品なのである。


遊園地が舞台なだけに、様々なライトや色彩がキャラクター達を彩る。それが微妙にその時のキャラクターの感情を映しており、影を落とす。その撮影技法もこの作品の大きな魅力だ。「女と男の観覧車」というタイトル通り、一度上に登った様に見えても、また同じ場所に戻って来てしまう行き詰まった人生を描いた本作は、あまりにもシニカルなラストである為、ある程度の年齢を重ねた観客の方が楽しめるだろう。特にラストシーンのケイト・ウィンスレットの表情は必見だ。ウディ・アレンらしい「突き放した作品」だったが、個人的には2014年「ブルージャスミン」を彷彿とさせる優れた作品だと感じた。次作がいよいよ長編50作目というウディ・アレン監督、来年の公開が今から楽しみである。

バトル・オブ・ザ・セクシーズ」を観た(完全ネタバレ&解説アリ)

バトル・オブ・ザ・セクシーズ」を観た。

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監督:ジョナサン・デイトンヴァレリー・ファリス

出演:エマ・ストーンスティーヴ・カレルビル・プルマンアラン・カミング

日本公開:2018年


1973年に行われた当時29歳の天才女子テニスプレイヤーのビリー・ジーン・キングと、現役を退いた55歳のレジェンド、ボビー・リッグズが行った有名な“男女対抗試合”を主題とした、ノンフィクションドラマ。主演は「ラ・ラ・ランド」のエマ・ストーンと、「40歳の童貞男」や「フォックス・キャッチャー」のスティーブ・カレル。監督はデビュー作の「リトル・ミス・サンシャイン」で高い評価を得たジョナサン・デイトンヴァレリー・ファリス夫妻。作品の中に多くの示唆が含まれた、名作だったと思う。今回もネタバレありで。

 

あらすじ

女子テニスプレーヤーのビリー・ジーン・キング(エマ・ストーン)は、女子選手の優勝賞金が男子選手の8分の1であることなど男性優位主義に不満を募らせていた。男女平等を求めるために仲間とテニス協会を脱退した彼女は、女子選手の地位向上を掲げた女子テニス協会を立ち上げる。そんなビリーに元男子チャンピオンのボビー・リッグス(スティーヴ・カレル)が男性優位主義代表として対決を申し込むが、それには彼にとっての人生逆転の意味合いもあった。

 

感想&解説

劇場でたまたま隣の席に座っていた60歳くらいの女性が、ラストの試合シーンで実際のテニスの試合を観ているように、ビリー・ジーン・キングにポイントが入る度に声を上げて、一喜一憂していたのが印象深い。まさに当時の女性たちは、こんな風にして試合の行方を見守っていたのであろう。この作品は、1973年に行われた女子テニスプレイヤー「ビリー・ジーン・キング」と有名な男性シニアプレイヤー「ボビー・リッグズ」が行ったバトル・オブ・セクシーズ(性別間の戦い)を描いている。


集客力はまったく引けを取らないのに、女子の優勝賞金が男子の8分の1という事実に疑念を抱いたビリー・ジーン・キングが全米テニス協会に抗議し、女子選手たちと「女子テニス協会WTA」を立ち上げるところから物語は始まる。最近のハリウッド映画業界でも「ゲティ家の身代金」に出演した、マーク・ウォールバーグミシェル・ウィリアムズのギャラ格差が何十倍もあった事が発覚したが、そういう意味で現代でも十分にリアリティのある題材である。ちなみに「バトル・オブ・セクシーズ」の主演二人のギャラは同額らしい。


この時のビル・プルマン演じる全米テニス協会責任者の言い分があまりに馬鹿げていて、「男性選手の方がスピード感がある」とか「男性の方が家庭を養っている」とか、男性に8倍の賞金が出る理由としてまったく納得できず、これを聞いているだけで当時の女性の社会的な立場がどれだけ低かったかが浮き彫りになるし、70年代「ウーマン・リブ」の機運の重要性も理解できる。


この「WTA」はメディアにも露出して、自ら集客を行い徐々に軌道に乗ってくるのだが、これにスティーブ・カレル演じるボビーが目を付け、「男性優位」を見せつけようと彼女に公開試合を申し入れる。ただ、ボビーもただの男性至上主義者というだけでなく、実はギャンブル依存症である事や、圧倒的に立場の強い資産家である妻の愛を取り戻そうと悩んでいたりと、メディア向けの「道化師」として注目を集め、もう一度人生の輝きを取り戻す為に戦っている事が描かれる。彼は単純なセクシストでは無いのである。


これはビリー・ジーン・キングも同じで、献身的な夫がいながらも女性美容師のマリリンに惹かれてしまい、70年代には許されなかったLGBTの悩みに直面する。劇中、地位のある男たちが「女は男より劣る」「女は重圧に弱い」「女が活躍するのは台所と寝室だ」などといった信じられない発言を公の場で繰り返すのだが、この状況の中で、女性代表として戦う事のプレッシャーは計り知れないだろう。この作品、表面的には男女間で行われるテニスの勝敗を描いているが、実はそれぞれの選手が持つ人生の背景やアイデンティティの戦いであり、このキャラクター達の描き方が非常に上手いのである。


特にアラン・カミング演じる、女子チームの専属デザイナーのテッドが、勝利したビリー・ジーン・キングに伝えるセリフ。「もう少し時間はかかるけど、これからは自由に人を愛せるような時代になる」とハグするシーンは非常に印象的だ。テッドもゲイなのだが、ビリー・ジーン・キングもLGBTである事を見抜き、もっと多様性を尊重する時代が来ると彼は告げるのだ。彼にとって、この「女性側の勝利」とは単純な「男vs女」を超えた勝負に思えていたのだろう。


今作は非常にエマ・ストーンの顔に寄ったショットが多い。それもそのはずで、彼女の実際ビリー・ジーン・キングに似せたルックスもさる事ながら、その表情の多彩さに魅せられる。試合勝利の後、一人ロッカールームで泣くエマ・ストーンからは、今までの不安やプレッシャーと勝った事への安堵が入り混じった全ての気持ちが現れていて、素晴らしいシーンだった。またその全く逆の構図で、負けたボビーがロッカールームで座っていると、あれだけ取り戻したかった奥さんがふと現れる。このシーンがあるだけで、本作が単純な勧善懲悪を描く作品では無いことを感じるだろう。


劇中、ビリー・ジーン・キングが「女が男よりも優れているなんて言っていない。敬意を持って接して欲しいだけ」という意味のセリフを言う。これがこの作品のテーマを端的に示している。僕はエンドクレジットを観ながら涙していた。隣に座った見ず知らずの女性も、もちろん泣いていた。素晴らしい作品だった。

「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」を観た(完全ネタバレ&解説アリ)

ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」を観た。

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監督:ロン・ハワード

出演:オールデン・エアエンライクウディ・ハレルソンエミリア・クラーク

日本公開:2018年


スター・ウォーズ」のスピンオフとしては、2016年ギャレス・エドワーズ監督の「ローグ・ワン」に続く第2弾作品。監督は2001年「ビューティフル・マインド」や2006年「ダヴィンチ・コード」のロン・ハワード。昨年末に「最後のジェダイ」が公開されたばかりなので、もうスター・ウォーズの新作が観れるのかと嬉しい反面、ディズニー体制でのシリーズ作の乱発ぶりに少し食傷気味なのも事実だが、あの「ハン・ソロ」の若かりし頃の姿を描くとなればスター・ウォーズファンとしては観るしかない。しかし本作、本国アメリカでは興行収入的に予想を大きく下回る結果となっており、次のスピンオフ作品は凍結かもとの噂が流れている。さて、作品のクオリティとしてはどうだったのか?今回もネタバレありで。

 

あらすじ

帝国軍が支配する時代。惑星コレリアで生まれ育ち、自分の力だけで生き抜いてきたハン・ソロオールデン・エアエンライク)は、銀河で一番のパイロットになるという夢を抱いていた。やがて宇宙に飛び出した彼は、チューバッカ(ヨーナス・スオタモ)という相棒を得る。彼らは、幼なじみの美女キーラ(エミリア・クラーク)らと一緒に、危険な世界に通じたトバイアス・ベケットウディ・ハレルソン)が率いるチームに加わり、壮大な冒険に身を投じる。

 

感想&解説

スター・ウォーズ」シリーズを監督するというのは、よほどの重責だろう。全世界に存在するファンたちの厳しい目に晒され、革新的な事をやれば「こんなのスター・ウォーズじゃない」と酷評され、お約束を守れば「保守的で凡庸な作品」と嘲りを受ける。つまり100%ファンに受けるスター・ウォーズを作る事はほぼ不可能なのだと思う。それぞれの熱狂的なファンの頭には、理想的なスター・ウォーズが描かれており、その理想に近い作品じゃないと不満を感じる為だ。


昨年公開された「最後のジェダイ」は、その典型的な例だろう。監督のライアン・ジョンソンはかなり冒険的なスター・ウォーズを作ったと思う。それに対しての賛否両論が評論家とファンの中で巻き起こり、熱心なファンからかなりの酷評を浴びせられた作品となった。それはルーク・スカイウォーカーの死から、フォースの魔法的な扱い、妙なギャグ演出など今までのスター・ウォーズのお約束を破った作品であり、ファンがまるで聖典を汚された様な気持ちになった結果だ。そして、僕も公開当時は違和感を感じた一人だった事は言うまでもない。


だが「最後のジェダイ」にひとつだけ良かった点がある。それはラストシーンである。奴隷のような少年がルーク亡き後、厳しい環境に置かれながらもホウキをライトセーバーのように構え、宇宙を見上げるシーン。ジェダイの意志は死なないという明確なメッセージと共に、何故かライアン・ジョンソンスター・ウォーズへの強い愛情を感じたのである。このシーンがあるだけで、僕は「最後のジェダイ」を嫌いにはなれないのだが、恐らくスター・ウォーズを監督するのに最も必要な資質は「どれだけスター・ウォーズを愛しているか」だと推察する。世界中のファンを敵に回しても、自分のビジョンを貫いて、まだ観たことのないスター・ウォーズを観客に提供するのだという気概が絶対に必要で、「最後のジェダイ」はそれが強過ぎたあまりに不評を買ったのだが、その革新性とお約束のバランスが上手く成立していたのが、前々作「フォースの覚醒」だと思う。


そこで前置きが長くなったが本作「ハン・ソロ」である。正直、アクション映画としてはそれほど悪くない。画面は派手だし、荒唐無稽な面白いシチュエーションが楽しめるので飽きずに観られる。ただ残念ながら、そこまでの作品と言わざるをえない。若きハン・ソロの活躍を描く作品としては決定的に「熱量」が足りないのだ。まず「エピソード4」のモス・アイズリー宇宙港でチューバッカと初登場したあのハン・ソロと、今画面上で話をしている男がどうしてもイコールで結び付かない。もちろんハリソン・フォードと主演のオールデン・エアエンライクは余り似ていないというのも要因だと思うが、なにより設定に違和感が残る。


この作品におけるハンの行動理由は、しぶしぶ負った「借金返済」の為であり、最も大きな目的は恋人キーラを助ける事の一点に集約される。その為に、とにかく本作のハン・ソロはキーラの事を追いかけ回してばかりいる。若さ故とも言えるが、ハン・ソロってこういうキャラクターだっけ?と何度も首を傾げてしまった。エピソード4~6のハン・ソロはもっと粗野で口も悪く、恋愛には不器用な男だったはずだ。だが、本作のハンは凡庸な色ボケの軟派にーちゃんにしか見えない。これはハン・ソロのスピンオフ作品としては致命的だろう。


もちろんチューバッカとの出会いや、ミレニアム・ファルコン号をめぐるランド・カルリジアンとの賭博シーンなど、ファンが観たかったシーンも押さえてはいる。だが、それらも想像の範囲を超えてはくれない。その事実だけを淡々と映しているだけで、何十年もファンが頭の中で描いていた夢の場面を超えるマジックは起こっていないと感じた。一言で言えば、ハン・ソロという魅力的過ぎるキャラクターを主演においたスピンオフ作品としては、あまりに「薄過ぎる」のだ。これはロン・ハワードという職人監督の資質にも通じる事かもしれないが、もっとバランスが悪くても「熱さ」を持った、はちゃめちゃなハンが観たかった。それが若きハン・ソロを描くという事だろう。


ロン・ハワードは確かに手堅く、きっちりと作品を仕上げるベテラン監督である。だが正直、本作からは「スター・ウォーズへの愛」は感じられない。ハン・ソロというパワフルで、ある意味複雑なキャラクターを描くのに適した人材とは言い難いのでは無いだろうか。「失敗出来ない」というディズニー傘下の良くない一面が露呈した例かもしれない。本作の監督は2014年の名作「レゴ・ムービー」のフィル・ロードクリストファー・ミラーが途中降板したらしいが、こちらの「ハン・ソロ」が観たかったところである。


最後に、これも取って付けたように突然「エピソード1」のダースモールが登場する。もちろんファンサービスのつもりだろうが、僕にはスター・ウォーズの世界が急に狭く感じられ、逆に不快であった。時系列的にもダースベイダーになるアナキンが幼少の頃に、ダースモールはオビワンに切られているはずだから、本作のハンとエピソード4~6のハンの年齢差を考えるとここで登場していいのか?という疑問は残る。


主演であるオールデン・エアエンライクのちょっとした笑い方や表情に、ハン・ソロの面影を垣間見て楽しむ分には良いが、作品全体としては厳しい評価になってしまった本作。改めて自分のスター・ウォーズという作品に対する思い入れに気付かされる結果となった。ただのSFアクション映画なら問題ない快作だとしても、本作は「スター・ウォーズ」シリーズであり、ハン・ソロのスピンオフなのである。期待値が上がるのは致し方ない。さて、いよいよJ.J.エイブラムス監督「エピソード9」の公開は2019年である。

「告白小説、その結末」を観た(完全ネタバレ&解説アリ)

告白小説、その結末」を観た。

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監督:ロマン・ポランスキー

出演:エマニュエル・セニエ、エヴァ・グリーンヴァンサン・ペレーズ

日本公開:2018年


ロマン・ポランスキー監督の最新作が公開となった。ポランスキー監督といえば、1968年「ローズマリーの赤ちゃん」や、1974年「チャイナタウン」、2002年「戦場のピアニスト」あたりが代表作だと思うが、近年でも2011年「おとなのけんか」や2013年「毛皮のヴィーナス」など85歳という円熟期を迎え、ますます才気走った作品を発表している。特に2010年のユアン・マクレガー主演「ゴーストライター」は、抑揚の効いた演出やエンディングの切れ味など、サスペンスの傑作としても名高い。今作もジャンルとしてはサスペンスだと思うが、その出来はどうだったか?今回もネタバレありで。

 

あらすじ

心を病んで自殺した母親との生活を綴った私小説がベストセラーとなった後、スランプに陥っているデルフィーヌの前に、ある日熱狂的なファンだと称する聡明で美しい女性エルが現れる。献身的に支えてくれて、本音で語り合えるエルに信頼を寄せていくデルフィーヌ。まもなくふたりは共同生活を始めるが、時折ヒステリックに豹変するエルは、不可解な言動でデルフィーヌを翻弄する。はたしてエルは何者なのか?なぜデルフィーヌに接近してきたのか?やがてエルの身の上話に興味を持ったデルフィーヌは、彼女の人生を小説にしようと決意するが、その先には想像を絶する悪夢が待ち受けていた。

 

感想&解説

スランプに陥っている女流作家デルフィーヌ(エマニュエル・セニエ)と、彼女の前に現れたエル(エヴァ・グリーン)という女性とのサスペンスフルな関係を描く作品である。ちなみに「エル」とは、フランス語で「彼女」という意味で一般的に名前としてつけられる事は無い言葉のようだ。ここも物語の伏線として機能している。小説家のデルフィーヌが自分の母親が自殺した事件の私小説を発表し、そのサイン会を行っているシーンから映画はスタートする。ファンの熱狂度に比べて、明らかに憔悴している感じのデルフィーヌ。やっとサイン会を切り上げたと思ったところに、颯爽と「エル」が現れ更にサインをねだる。ここで最初のちょっとした違和感を感じるのだが、これは後述したい。


さらにその後の出版パーティでもエルが現れてデルフィーヌの孤独を理解する事により、やがて二人は意気投合していく。歯に物を着せずズケズケとデルフィーヌに本質を語るエル。だが時にはまるで友達のように、そしてマネージャーのように作家としてのデルフィーヌにアドバイスを送る。そして自らも孤独な心の内をさらけ出すことにより、更に二人は絆を深めていく。ところが時として、エルは暴力的で過激な一面も見せる。うまく動かない「ジューサー」を怒りのあまり粉々に破壊するシーンなど、恐ろしさと滑稽さが混じったようなシーンで、エルの不安定な内面が突然露出する。


それが映画の後半、足を骨折したデルフィーヌをエルが山奥の別荘に連れ出すシーンからエルの邪悪性が顕著になる。エルの作った料理を食べたデルフィーヌは、完全に身体を壊して寝たきりになってしまう。更に追い打ちをかけるように、嫌がるデルフィーヌに謎のスープを飲ませようとするエル。思わず僕は、1990年ロブ・ライナー監督「ミザリー」のキャシー・ベイツを思い出してしまったが、いわゆるサイコパスの系譜の作品かと思ったのである。それにしてもエルの動機がよく解らない。「ミザリー」の場合はファンの作家に対する深すぎる偏愛によって、彼を独占したいというシンプルな動機だったのだが、今回はエルも男性とのセックスの話を劇中でわざわざセリフにしている位だし、同性愛的な伏線がある訳ではない。逆にいえば、この作品に対しての観客の興味はこの「エルの動機」一点に絞られる。


これがいわゆるこの映画のオチの部分になるが、はっきり言ってしまえば「ミザリーでは無く、ファイトクラブだった」と言えば、勘のいい方ならピンとくるだろう。実はこのエルとは、デルフィーヌの産み出した幻想でありもう一人の自分だったのである。デルフィーヌはエルの人生に興味を持ち、彼女をテーマに本を書こうとする。彼女はその「創作」という生みの苦しみから出現し、のたうち回りながらも作品を作るキッカケを作る、もう一人の自分の姿なのである。


そう思って作品の各シーンを思い出すと、カフェでの店員はエルに目線すら合わせないし、デルフィーヌがエルにかける「どんなに朝早くても綺麗にしてるのね」というセリフ、エルに頼んだハズの講演会がすっぽかされていた件や、冒頭の打ち切られたサイン会で現れたエルは、他に並んでいる人たちがいたのにも関わらず、突然現れて誰にも咎められずにサインをねだれた事など、思い出してみればまるでエルは他の人には見えていないような演出が、冒頭から散りばめられているのだ。この謎解きシーンは、1999年のM・ナイト・シャマラン監督「シックス・センス」のラストを思い出す。


正直言って、ストーリーとオチは斬新とは言いがたい。ストーリーとして、すごく推進力がある訳でもないので、中だるみもする。だが、ラストシーンの切れ味はとても良い。そもそも冒頭のサイン会のシーンでのデルフィーヌの疲れ切った態度。これは自殺した母親が作品のテーマだっただけに、姿は違えど、やはり母親の幻想と対峙して生み出した作品だったのではないかと想像させるし(それを示唆するシーンもあった)、それと円環構造となっているラストのサイン会シーン。デルフィーヌの書いた覚えがないという原稿が編集社に送られていたというシーンから、エルがしていた真っ赤なマニュキュアの指だけが映る。指はペンを持ち、本にサインをしているのだが、それがエルでは無くデルフィーヌの指だと示されてからのデルフィーヌの表情、さらに原題である「実話に基づくストーリー」という表記が出て、初めて観客が膝を打つ仕掛けとなっているのだ。


つまりこのラストシーンは、デルフィーヌが二重人格者としてもう一人の自分であるエルと対峙した「実話」を出版し、そのサイン会に参加しているシーンなのである。このラストシーン、言葉による説明は一切ない。だが、この現実と虚構が混じり合いクラクラする感覚は、新しい体験だった。総合的には傑作とは言い難いが、ロマン・ポランスキー監督の「告白小説、その結末」は、この一点だけでも観る価値のある作品になっていたと思う。特に二回目の鑑賞が楽しいタイプの映画だろう。